一 「巡回御用神社取調」(明治五年)と亀田村地方
開拓使において明治五年、北海道神社改正取調を実施した。直接調査に当った札幌神社権宮司兼開拓使十一等出仕菊池重賢の『巡回日記』(当時の村々の戸数、人口、神社沿革、祭祀神体、社殿形体、神仏混淆(こんこう)の有無、その他を記録)による亀田村地方の神社は左のとおりである。
ア 八幡宮 亀田村
イ 稲成社 旧五稜郭同心長家
ウ 稲生社 鍛冶村
エ 稲生社 神山村
オ 三嶋社 赤川村
カ 川上社 石川郷
その他 無量庵(函館称名寺末)神山村
「桔梗村 当村守護神ナシ。祠モナシ
亀田村八幡宮氏子ニ相成度段申出ル。」
同じく巡回日記の八月二十四日の記録に次のことが記されている。
「亀田郡神山村
東照宮社焼亡跡石鳥居、漱盤残有分取払申付候処、同村稲生社へ申請度段願出候に付、御評議願の通被二仰付一候事。」
二 独立への歩み
ささやかな庵であり、説教所であったものが、信者の熱心な力と、住職の絶えざる努力が一致して、信仰を実らせ堂宇の建設に当った。
例えば無量庵が大円寺となり、高龍寺説教所が潜龍寺となり、また亀田村に布教して、やがて浄光寺、万年寺(共に明治三十二年函館区との合併により亀田村から分離)が創設されたことは、開拓とともに信仰により、生涯を支えられた村人の姿を描き出していると思う。