中野B遺跡の集落跡

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 中野B遺跡もまた函館空港滑走路拡張工事に伴い、平成八年度まで行われた発掘調査により、その全容がほぼ明らかとなっている(前出『函館空港第4地点・中野遺跡』、『中野B遺跡・中野B遺跡(Ⅱ)』北海道埋蔵文化財センター一九九六)。この遺跡は、銭亀宮の川を挟んだ中野A遺跡の対岸で、標高四〇から五〇メートルの平坦面に広範囲にわたって住居跡が密集する大規模集落跡である。これまでにおいて確認された住居跡は、大半が縄文時代早期後半頃の時期に属するものであり、宮の川の対岸にある中野A遺跡の集落構成とは時間的に差がみられ、おそらくは中野B遺跡の方が全般的に新しいものと考えられる。
 これらの中でもっとも多いのは、住吉町式という貝殻文による文様が付けられた尖底土器を使用するグループであり、全体の約九割程度を占め、これまでに約六〇〇軒を越える住居跡が確認されている。この時期の住居跡は、一〇メートルを越える大型のものや三メートル程度の小さなものも存在するが、平均的な大きさは四から五メートルとなっている。平面の形態は、楕円形、隅丸方形、隅丸長方形などが一般的であるが、重複が著しくて本来の形が不明なものが多くみられる。次には、ムシリⅠ式に分類される幾何学的な平行沈線文が描かれる平底土器を使用するグループのものがある。この時期の住居跡は、形態的には住吉町式土器のものとそれほど相違がなく、大きさでも三メートル以下の小さなものや九メートルを超える大型のものなど様々である。どちらかと言うと、住吉町式土器のグループよりも多少大きめで、掘り込みも深いものが多いようであり、全体の二割程度がこれに該当するものと考えられる。

中野B遺跡の重複する集落跡(北海道埋蔵文化財センター提供)

 また住居跡に隣接する形で、長さ一から二メートル前後の小規模な土壙と呼ばれる遺構が三〇〇基以上存在し、その大半が墓や貯蔵穴と考えられている。この中で、数はそれほど多くないが断面形がフラスコ状となり、深さが二メートルに及ぶものがあり、一般的には貯蔵穴と考えられている。このフラスコ状土壙は、台地西端の根崎遺跡においても確認されている。特に、住吉町式土器に後続する根崎式という貝殻文尖底土器の時期に多いとみられるが、これに続く平底のムシリⅠ式土器の時期にはほとんど存在しなくなるようである。なお、これら貯蔵穴とみられる土壙中の土壌からは、ミズキ・キハダ・クルミなどの炭化した種子が検出されるなど、当時の食料植物相の存在が明らかとなっている。
 中野B遺跡の住居跡は、かなり複雑に重複する例が多くみられることから、一時期にどれ程の集落が形成されていたのかを特定することは困難であるが、かなり長期間にわたって継続して造り替えられていたであろうことは推測できる。仮に中野A遺跡と同様に、最大で五、六軒単位と考えると、一〇〇から一二〇回程度の建て替えが必要となる。たとえば一軒当たりの耐用年数が一〇年程度としても、約一〇〇〇年以上の長期間に及ぶことになることから、もう少し集団の単位が大きいか、または建て替えの期間が短かったことが考えられる。おそらく、住吉町式、根崎式、ムシリ式Ⅰなどの土器型式の移り変わりの時間幅は、三〇〇から五〇〇年ぐらいと思われ、一時期における住居数が一〇から一五軒程度の集落構成となっていた可能性がある。

中野B遺跡フラスコ状土壙の断面(北海道埋蔵文化財センター提供)


中野B遺跡石錘の出土状況(北海道埋蔵文化財センター提供)

 このように、中野Bと中野Aの両遺跡ともに縄文時代早期の集落跡が広がりをみせていて、通年または季節的なものかは明確ではないが、一定の期間は定住生活の状態にあったことはほぼ確実といえる。なお、これらの集落における生活形態は、それぞれの遺跡から大量に出土した、漁網の錘として使用されたとみられる石錘の存在などから、主に海や川から獲得する魚介類などの食料に依存していたと考えられる。また、周囲の植物を採集して多少の蓄えも行っていた可能性が高い。