この本に、工藤福松という漁業家が収録されている。その経歴には、一漁夫として銭亀沢からサハリンへ出稼ぎした動機やきっかけが記されているのである。
その生い立ちをみると、津軽半島の陸奥湾に面した中沢村(現蓬田村)で生まれたが、困窮して銭亀沢の祖父をたよってきたとある。その後一時青森県の叔母のもとに送られたが、そこにも居ることができず、一四歳で和船の船乗りになり、北海道各地を回り「言う可らざる」辛酸を嘗めた。そして茅部郡森村(現森町)で「大放網教師某氏」の弟子となってここでも苦労を重ねたのであった。
工藤福松(『北海道立志編』)
次に、漁業者として世に立ち、サハリンへ赴くまでの事情を引用してみよう。
…氏、漁撈に通じ漁業界の状勢を知るや発憤、志を漁業界に馳せ亀田郡銭亀沢村の漁業家にして氏の親戚たる松田伝五郎氏を頼り、同氏の漁場に於いて漁業を援け身を一介の漁夫と為して粒々辛酸を嘗め艱苦に耐ゆる十ヶ年、氏、壮齢已に二十八歳に達し独立せんを画す、明治二十六年、偶々樺太の大漁業家デンビー氏の熟練なる漁夫を函館に募るあり、氏、直に其の募に応じて樺太に赴…
銭亀沢の親戚、「松田伝五郎」経営の漁場で一〇年ほど働き、独立を考えた時にサハリン行きのチャンスが巡ってきたのである。それは日本人経営の漁場ではなく「デンビー氏」の漁場であった。
デンビーというのは、ロシア人が経営する「セミョーノフ商会」の支配人である。同社はサハリン島の真岡[ホルムスク]に拠点を置き、真岡周辺の西海岸一帯で昆布漁をおこない、それを中国に輸出して大きな利益をあげていた。支配人のデンビーは昆布に飽き足らず、周辺の日本人漁場が鰊漁などから利益を上げているのをみて、自らも取り組もうと思ったのである。ところが、当時ロシア人の漁撈技術は未熟であり、漁具なども日本のものを使用せざるを得ない状況であった。それでデンビーは、日本で漁夫を募集したのである(詳細は清水 恵「函館におけるロシア人商会の活動」『地域史研究 はこだて』二一号を参照されたい)。
この時、函館や周辺の各漁村で募集がおこなわれたのであろう。工藤福松はこれに応じたわけであるが、銭亀沢出身者が工藤だけであったとは思われない。先にも記したが、この地域の漁村では、各地の鰊漁場への出稼ぎで生計をたてていたからである。
ところで、デンビーはこのあとも漁場経営を拡大し、明治三十一年には日本人漁夫七三三人を雇用、鰊締粕二万二〇〇〇石を生産した。同年の日本人出漁者が生産した鰊締粕の総計は三万二六〇九石であるから、その規模の大きさがうかがえる。
工藤福松に話をもどせば、このロシア人漁場で働くこと四年目の明治二十九年、五〇〇円の貯蓄ができ、これを資本に福田松之助と共同で、サハリンに九か所の漁場を得たという。福田松之助とは同じく『北海道立志編』に登場している人物で、長崎で生まれ、後に函館に居を構えたとある。デンビーが来て、漁夫を募集したときに応じたのだという。長崎で漁夫が募集された背景は、デンビーが同県出身の女性と結婚し、義兄が漁場経営に参画するようになったからであろう。
工藤の漁場だが、コルサコフ領事の作成した報告書には記載がない。その理由は、これらの漁場がセミョーノフ商会に許可された一帯にあって、一般の独立した日本人漁場とみなされず、扱いも違ったからだと推察される。いいかたをかえれば、ロシア人名義であったということである。おそらく、セミョーノフ商会からの仕込を受けていたのであろう。いまのところ、この漁場を特定できる資料は見当たらない。「函館新聞」の記事によれば、「荒貝」[ホルムスカーヤ川]は福田松之助が開拓した漁場だということである(明治三十八年八月十九日付)。
さて、こうして自ら漁場を持った工藤は、毎年七〇人の漁夫を使用したという。この中には、少なからぬ銭亀沢村出身者がいたと考えてもいいだろう。気心が知れて、信頼のおける同郷人を雇用する例はよくみられる。
それから工藤の漁場経営は一度も失敗をせず、その富は宅地や山林、田畑に姿をかえ、明治三十六年には、銭亀沢村に郵便受取所を設け、人びとの便宜をはかったという。こうして『北海道立志編』は功成り名遂げたところで終わっている。たまたま工藤は成功者だったゆえに文字資料に残されたが、毎年多くの無名の人びとが銭亀沢からサハリンへ渡って働いたものと推測される。工藤福松は、銭亀沢村からサハリンへの出稼ぎの道筋をつけた先駆者の一人であったといえるのではないだろうか。