さて、「鉄道敷設法予定線路一覧」(前掲)には、その敷設理由が各線路ごとに記載されている。釜谷鉄道は、前述したとおり「一般産業ノ発展ヲ図ル」云々といった曖昧な敷設理由とも受け取れる内容であるのに対し、上磯、江差間鉄道は「…函館市場トノ交通ノ利便ヲ完フシ特ニ冬季海路交通ノ不便ヲ補フ」と具体性を帯びていた。また、木古内、福山間の敷設理由には「…将来本線ニヨリ福山ヨリ本州三厩小泊地方トノ海上連絡ノ途ヲ開クニ至ルベシ」と対本州連絡線の役割を担うことを含んでいる。これは対岸、津軽半島の敷設予定線である青森、五所川原線(三厩、小泊経由)の「津軽半島ヲ一周シ対岸北海道福山方面トノ交通ノ便ヲ図リ…」という対北海道を意識した内容と合致するものである。
下北半島に予定されている田名部、大間間の鉄道も「下北半島ノ産業開発ヲ図リ兼テ本線路ノ敷設ニ依リ対岸北海道トノ交通連絡ノ途ヲ開ク」と対北海道連絡を意識しているが、対岸の函館、釜谷間の敷設理由にはこの点がまったくない。
大正十五年十一月二十九日付け「函館新聞」には、釜谷鉄道が敷設予定線となった原因として、「本道と内地との最捷連絡地点として採択されたもの」という内容の記事が掲載されている。この記事によれば「釜谷と対岸の大間間は津軽海峡中の最短距離にてわずかに十三浬に過ぎないから連絡地点としては全く理想的の優位置を占めている」として、函館港の貿易港としての発展のためにも「此際連絡地点を他の適当なる地点に移転せしめる事は当然の事である」と対本州の鉄道連絡地点を函館から釜谷へ移す前提が釜谷鉄道の敷設ではないかと述べている。
一方、この釜谷鉄道敷設に対して否定的な意見も出てきた。この当時の函館は「渡島開発と長万部鉄道、今更言うまでもなく大なる関係を有するもので此の線の開通に依って我が函館の利する処は少なくないのである」(大正十年一月二十日付「函毎」)との記事に代表されるように、長輪線(長万部-輪西)の早期開通に市民の関心が集まっていたようである。
他の敷設予定線に対する函館市民の反応と言えば、「函館市民が長万部鉄道の開通を熱望して運動に日も尚足らざるものありしに反し、松前鉄道の開通には比較的冷淡なるものあるが如し…」(阿部覚治『大函館論』)と言われたように松前鉄道をはじめとする他の路線に対しては関心が高くはなかった。
大正十二年八月一日に発行されたこの『大函館論』の中で、「長万部鉄道と松前及釜谷鉄道の価値」という記述がある。そのなかで長万部鉄道については、石炭の問題のほか、「この鉄道の開通に依り函館と、北海道の東半部との距離を短縮し得て市民は一般的なる商権をこの方面に拡張し得可き事これ也」、と小樽、札幌を通過しなければならない鉄道網の打破と函館の一層の商権拡大に有効な鉄道路線としている。
これに対して釜谷鉄道については「釜谷鉄道は函館と釜谷間の鉄道にして其距離十哩以内に過ぎず、該鉄道の主眼とする処は、本土北海道間の連絡にして、釜谷村が対岸大間との海上の最短距離たるを以てなり」とした上で、「該鉄道を世人の思ふが如く重大視能わず、(内部に公表し能わざる軍事的関係ありとせば別問題なり)否、寧ろ屋上屋を架するの嫌なき能わざるを以て、大間釜谷間の連絡は寧ろ大間函館間に変更するの至当なるを信ず」と本州連絡鉄道としての釜谷鉄道敷設に異議を唱えている。対本州連絡だけであれば、航路を函館、大間間とすることで「大間より釜谷へ上陸後は更に鉄路函館に出でざる可からず」不便を解消し時間短縮もできると述べている。また、釜谷、大間間に鉄道連絡の航路ができれば、鰮漁場が打撃を受ける恐れがあり、「漁民の反対は無論之れあるべき事と思惟せざるを得ず」としている。釜谷鉄道に対する結論として、「付近村民の生業を犠牲とし、函館と陸上僅かに三哩内外の処に海上三四哩近距離の故を以て二個所の連絡地点を設くるの必要ありや、海上三四哩の距離の差は連絡時間、待合時間等の円滑を計りなば之れを埋合せ得て十分なり、以上の理由に依り余は余一個の考えを以てすれば釜谷鉄道の価値を(軍事上は兎も角)重大視する能わざるものなり」と軍事的理由以外にはその価値がないとしている。
改正鉄道敷設法により釜谷鉄道の敷設が明示され、速成期成同盟会も組織されたが、他線区のような鮮明な敷設理由もないままに、大正十三年七月、戸井村が津軽要塞地帯に編入されて、海峡防備のための戸井要塞構築が軍当局で立案される(『戸井町史』)など、軍事的要素を多分に含みはじめた釜谷鉄道の敷設工事は、昭和十年代になるまで開始されないのである。