工事は昭和十一年十月に北海道建設事務所の所管となり(『北海道国鉄百年史』下巻)、十二年には測量も終了した。第一期工事として五稜郭、湯川町高戸倉二七番地までの約七キロメートルが着手されることになった。昭和十二年九月七日旭川鉄道建設事務所で入札が行われたが予定価格に達せず、十三日の再入札で一六万五〇〇〇円で函館市今井組の落札となり直に着工、二〇か月間で竣工の予定であった(昭和十二年九月十七日付「函日」)。こうして軍用鉄道と位置づけされた釜谷鉄道がいよいよ着工の緒に就いたのである。
工事が開始された釜谷鉄道は、第一期工区の五稜郭、湯川間で「東五稜郭」、「湯の川」の二か所の駅を設置することを決定した。銭亀沢、古川尻、小安、釜谷、汐首、弁財の六か所が予定駅とされ、第一期工区以降は昭和十三年中の着工と十六年竣工の予定となった(昭和十三年一月三十一日付「函日」)。「函館日日新聞」のこの報道では釜谷鉄道を「戸井線」と呼称しているが、この頃から釜谷鉄道は戸井線と一般的に呼ばれるようになる。
昭和十三年四月二十九日付けの「函館新聞」は釜谷線が十四年三月に湯川町までの鉄路敷設が完了する見込みで、同線湯の川駅となる湯川小学校裏手まで市電線の延長を要望する声が湯川町より出ていることを伝えている。湯川まではレールが敷かれ、工事列車と思われる蒸気機関車牽引の貨物車が走行していた、と当時を知る人が証言していることから、この区間は線路敷設も含めて工事が順調に進展していたと思われる。
戸井線の建設費も、昭和十二年度から十六年度まで支出されており(表1・6・2参照)、また『戸井線概要図』(市立函館図書館蔵)によると昭和十七年九月に第四工区が竣工していることから、同年まで工事が行われていたとみてよいだろう。ただし、銭亀沢在住の当時を知る人からの聞き取りでは、十三年以降は路盤などの土工のみであったと思われる。その後、昭和十九年に戸井まで竣工させる予定であった戸井線は、戦局の悪化により、不急の鉄道として十八年以降工事が中断されることとなった。
表1・6・2 道南付近の年度別鉄道建設費 単位:円(円以下は切り捨て)
「鉄道省所管特別会計決定計算書」(国立公文書館蔵)より作成