本山地では、かつて汐泊川沿いの道路事情が悪かった頃、野広川の谷を通る峠越え(標高一六〇メートル)の山道が、蛾眉野や鉄山と海岸部との行き来に盛んに用いられていたという。また、尾根部の緩やかな斜面が共同放牧場として昭和三十(一九五五)年代末から四十年代頃に利用されたこともある。この山地の一部(図2・1・1参照)では、戦中、戦後にかけ、戸井層を貫く岩脈に含まれる銅、鉛、硫化鉄を対象に石崎鉱山が、また汐泊層中の鉱脈に胚胎する黄鉄鉱、閃亜鉛鉱を対象に銭亀沢鉱山が営まれていたが、いずれも昭和二十九(一九五四)年頃に操業を終えている(長谷川・鈴木、1964)。
銭亀沢東部の山地(鶴野町付近から清水山321.3メートル)
近年はあまり積極的な利用が行われていない。燃料革命以前は、木炭生産の場として、人びとの内陸との歩行往還の通り道として、また銅や亜鉛を採る小鉱山の稼行もあって、人びとの暮らしとの結びつきが強かった。現在は、熊の数が増えているという、鉄砲撃ちをしていた古老の話もある。