東部の山地

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 ここは最高所を三九七・〇メートルとする低起伏の山地である。分水線が南にかたよっているために、西から東に、野広(のびる)沢、十勝沢、仙太郎沢、蛾眉野(がびの)沢など長さ二キロメートル以上の沢はいずれも北流して、汐川の上流にあたる温(ぬるい)川に注ぐ。この山地の東半分は、おもに戸井層と呼ばれる中・古生層に属する粘板岩や砂岩など比較的に堅硬な岩石からなる。西半分は第三紀中新世の汐層で、砂岩、泥岩の互層を作っている。この山地の顕著な地形的特徴は、標高二五〇から三〇〇メートルに頂面を揃える尾根部の定高性にあり、温川対岸の山地や東側の古武井方面の山地とも共通している。こうした定高性は、かつてかなり長期間にわたり、地形の平坦化作用が働いていたことを示唆する。その後、隆起運動とともに活発化した谷の開析によって、いまではすっかり山がちとなったのである。
 本山地では、かつて汐川沿いの道路事情が悪かった頃、野広川の谷を通る峠越え(標高一六〇メートル)の山道が、蛾眉野や鉄山と海岸部との行き来に盛んに用いられていたという。また、尾根部の緩やかな斜面が共同放牧場として昭和三十(一九五五)年代末から四十年代頃に利用されたこともある。この山地の一部(図2・1・1参照)では、戦中、戦後にかけ、戸井層を貫く岩脈に含まれる銅、鉛、硫化鉄を対象に石崎鉱山が、また汐層中の鉱脈に胚胎する黄鉄鉱、閃亜鉛鉱を対象に銭亀沢鉱山が営まれていたが、いずれも昭和二十九(一九五四)年頃に操業を終えている(長谷川・鈴木、1964)。

銭亀沢東部の山地(鶴野町付近から清水山321.3メートル)

 近年はあまり積極的な利用が行われていない。燃料革命以前は、木炭生産の場として、人びとの内陸との歩行往還の通り道として、また銅や亜鉛を採る小鉱山の稼行もあって、人びとの暮らしとの結びつきが強かった。現在は、熊の数が増えているという、鉄砲撃ちをしていた古老の話もある。