大正四(一九一五)年測図の旧銭亀沢村二万五千分の一地形図によれば、当時の内陸には志海苔沢、笹流、石倉野、長坂の地名を見るのみである。台地上はもっぱら牧場として使われたようで、土塁が縦横に走るのが目につく。庵原土塁、永田牧場などの名がある。汐
泊川付近から西では、この台地の段化、すなわち海岸段丘としての特徴が顕著である。現在、高位の台地の一部がゴルフ場として利用されている。函館空港は、低位の台地を大きく改変して造成されており、銭亀沢の土地利用の中にあっては特異な地位を占めている。空港の敷地は長さで既に三キロメートルあるが、さらに五〇〇メートルの延長を計って工事中である。その予定地内に縄文早期を中心とする
函館空港遺跡、中野B遺跡があり、平成八(一九九六)年まで大規模な発掘調査が行われた。空港近くでは、近年、団地開発や、道路、公園整備が進みつつある。赤坂町から白石町に至るまでの緩やかにうねりながら続く台地上は、肥沃な黒色土を利用した一面の畑地であり、広域農道などの道路整備とも相俟って、大型農業機械を使ったジャガイモ、トウモロコシ、ニンジンなどの栽培が行われている。海岸近くの台地縁では、近年の養殖
昆布生産の増加とともに、従来の畑地がコンブ干場に転換される例が目につくようになった。
台地のもう一つの利用としては、砂採取のための土取りがある。これは現在のところ、豊原付近に限られているが、厚い銭亀沢火砕流堆積物を大規模に掘り下げて、その下にある旧海岸砂や礫を採取するもので、跡地は畑に戻されるものの、台地地形が大きく変えられつつある。
石崎町の台地端におけるコンブ干場
養殖
昆布の生産が安定してから、台地上のコンブ干場が増えつつある。夫婦労働の場合、夫が、沖で収穫したコンブを軽トラックに積み替え、妻が車を運転して台地上に運び、砂利を敷き詰めた干場に並べる。こういう作業をシーズン中の晴れた日には幾度も繰り返す。
新湊付近の海岸
台地端の崖は、もともと海食崖であり、波の及んでいたところである。崖から崩れ落ちた土砂の高まり、すなわち崖錐上に多くの家屋が立地する。護岸堤は集落維持に欠かせない。長い目で見ると、函館市内の
大森浜の土砂を養い、砂丘を成長させてきたのは、かなりの程度、銭亀沢の海食崖後退で生み出された砂であろう。