当時の函館は、現在の産業道路付近を含めた市街地部分がほぼすべて海の下にあり、島であった
函館山との間には幅七キロメートル以上の海域が広がっていた。見渡す限りの海であったが、当時の海岸線を、現在の場所で辿ると、かなり明確なのが東山の東山墓園北側から日吉町の函館北高校の北にかけて東西に走る崖線、あるいは見晴町の函館有斗高校野球グランド南の崖下、また函館空港北の航空無線標識下を繋ぐ線であり、当時はこの線まで波が打ち寄せていた。背後にある崖は当時の海食崖とみてよく、崖の下の海面下では波の作用による平坦地(波食台)が出来た。海食崖の上には、かなり広い台地が開け、ところどころを谷が浅く開析していた。これらの台地が「赤川面」と呼ばれる海岸段丘で、今も畑地となって市街地の背後に広い平坦地を作っている。銭亀沢では現在の海岸線より一キロメートル前後山よりに当時の海岸線があったようだ。しかし、汐
泊川より東ではその後の地形変化(「銭亀沢火砕流堆積物」の被覆など)が大きく、はっきりしない。一方、
函館山では、
高龍寺境内、旧函館区公会堂、護国神社の足元あたりまでも波が打ち寄せていたらしい。
以上のような旧海岸線は、おおよそ現在の標高にして約六〇メートル等高線付近にあたる。すると、当時の海面は、現在よりも相当に高かったように思ってしまうが、そうではなく、地盤の方がこの間に上昇したことはすでに述べた。
この時期の
亀田川が作っていた扇状地はまだ小さく、現在の神山、美原付近に少しせり出ていたに過ぎなかったであろう。
図2・1・11 約12万年前(最終間氷期)の函館周辺の地形環境