銭亀沢村を含む道南地帯における出稼ぎの歴史は古い。たとえば、先に挙げた明治二十五年の『予察調査報告』によれば、道内の鰊、鮭・鱒漁業や昆布採取業に雇用される漁夫は、「年々其ノ数九万余人ニ下ラズ其ノ内他道ヨリ雇入ルヽモノ六万余人其ノ他ハ本道内殊ニ渡島地方ノ雑漁民ヲ以テス而モ此等ノ雇夫ハ現今ノ漁業組織上ニ欠ク可カラザルモノナルヲ以テ…是ナクンバ其漁業殆ド行ハレザルナリ」とあり、当時の渡島地方の漁村地帯が、北海道漁業に必要な労働力の供給源として、不可欠の存在であったことが知られるのである。
また、この『予察調査報告』には、大部分の小漁民は、「春期ニオイテハ西海岸地方ノ鰊雇夫トナリ夏期ニ至レバ自村ニ帰リテ昆布採取及此漁業(鰯地曳網・筆者)ニ従事シ秋冬ニ至レバ鱈若クハ其他漁業ニ従事スル」とあり、道南漁村地帯の漁民にとって、出稼ぎは、就労機会の確保と漁民の経済生活を維持する上で極めて重要な意義をもっていた。
下って明治四十年代に入ると、道南の漁村地帯は、北海道漁業の労働力供給源としてあるのみでなく、日露戦争以後急速に発展した露領漁業の漁夫供給地帯としても重要な位置を占めた。すなわち、明治四十二(一九〇九)年に八一五人を数えた露領漁業出稼者は、大正元(一九一二)年には一万二八二三人となり、大正六年まで一万数千人の漁夫を露領漁業に送り出していた。この数は全道の露領漁業出稼者の八割に当たる(昭和二十六年「道南地方漁業労働力の入出稼の推移」北海道労働科学研究所)。
このような明治末期から大正初期にかける露領漁業出稼者の急増は、明治三十年代以後における道南鰊漁業の衰退がその要因で、鰊漁場への出稼ぎの機会を失った沿岸小漁民が、新たに開発された露領漁業に就労の場を求めたのである。
この後道南では、大正六、七年から昭和初期にかけて、鰯漁業が盛んになり、露領漁業の出稼者は減少し、大正末期から昭和初期には再び増加した。この後道南漁村地帯の出稼者の増減は、日中戦争の影響を除けば、昭和十年以後の地元漁業の盛衰と表裏をなしているが、道南漁業の後進性と季節的性格、それを克服できない漁業の低い生産性が、出稼ぎ労働を維持させていたのである。
ただ、大正末期から昭和初期には、道南の漁村地帯においても、沿岸漁業から沖合漁業への進出が試みられている。従来主に小型漁船で営まれていた烏賊釣りや、その他の釣り漁業では、大正十年頃から川崎船を大型化して沖合の烏賊釣り漁業を始めるものが現れている。しかし、この川崎船による操業は、漁民の共同出資で営まれた副業的性格のもので、個人所有の漁船の場合でも、漁獲物は船主一割、釣子九割で配分するといった形態をとっていた(中込暢彦『イカ漁業の経済構造』)。
この後、この村でも動力漁船が普及して、烏賊釣り漁業にも画期的な変化がもたらされたようだが、その間の事情は不明である。前出の『イカ漁業の経済構造』によれば、この村に動力船が登場したのは大正十四年のことで、根崎の地曳網や定置網の共同経営者がはじめて導入している。根崎の地曳網や定置網漁業は、地先に昆布礁があるため元々小型で、規模拡大が阻まれていたが、沿岸の鰯漁が伸び悩むようになり、動力船による烏賊釣り漁業がおこなわれるようになった。
銭亀沢地区では、鰯の地曳網漁業が盛んであったが、沿岸に回遊する鰯の減少により、昭和三年頃から鰯の沖合漁業が始まり、昭和十年頃になって動力船が使われ、さらに烏賊釣り漁業がおこなわれるようになって漁船の動力化が進展したという。
このような漁船の大型化や動力船の導入は漁民層の分解を促し、動力漁船を所有する船主層と、他方には動力漁船に乗船して釣り漁業に従事する釣子層を創り出したのである。釣子層になった小漁民は、それまで続けてきた小規模漁業を止め、地元漁船の乗子あるいは出稼ぎなど、専ら雇用労働に依存して生活を維持するようになった。しかし、地元の基幹漁業となる鰯、昆布、烏賊釣り漁業はいずれも季節的で、しかも雇用の機会に恵まれない道南地帯では、これら小漁民は、就業の場をさらに他の地域に求めざるをえなかったのである。
昭和八年の『北海道水産年鑑』によれば、昭和五、六年の銭亀沢村の出稼者は次のようになっていた。
海外へ出稼ぎ 五九八名(露領漁業…筆者注)
道外へ出稼ぎ 五二八名(樺太鰊漁業…同)
道内へ出稼ぎ 六二〇名(日本海鰊、千島鮭定置…同)
これによると、道内外、海外を合わせると一七四六名(延べ人数)の村人が出稼ぎに出ていた。当時この村の漁業世帯は九六六戸であったから、ほぼ一世帯から二名の者が出稼ぎに出ていたことになる。戦前の銭亀沢村は、北洋と北海道漁業の出稼ぎ母村として位置付けられていたのである。
当時、村の漁民の典型的な就労パターンは、次のような形をとっていた。
三月から五月 道内日本海・樺太の春鰊漁業出稼ぎ
五月から八月 露領・千島鮭定置漁業出稼ぎ
十月から十二月 地元鰯漁業就労
こうした状態は敗戦近くまで続いた。
戦時下まで沿海州、樺太、千島などへと二五年間出稼ぎを続けて来た女性が、「私達の村で今で云ふ村民皆労とか国民皆労と云ひますか、老も若きも自家の仕事以外の余暇は出稼ぎしても働くことが習慣となって居り、従って私が過去二十五年間働き続けた事は別に珍しい事でなく、村と家の習慣に従つただけの事です」(昭和十八年三月六日付「道新」)と語っているように、戦前のこの村の一般漁民にとって、漁業出稼ぎは生活の主要なよりどころになっていたのである(拙稿「母船作業員の母村」、近藤康雄編『北洋漁業の経済構造』参照)。