明治三十六年、銭亀沢村に銭亀沢消防組が設立された。初代組頭は武井安郎兵衛(大正六年三月八日付「函新」)であった。
大正期の銭亀沢村の消防組合は、大字根崎村、大字銭亀沢村、大字石崎村などの三部に分かれており(大正七年『函館支庁管内町村誌』)、昭和九年の『村勢一班』によると、銭亀沢村消防組は、四組に分れていた。役員と組員は、組頭一名、部長四名、小頭一八名、消防手一七九名という記録が残っている。消防組の行事として、出初式や秋季演習などがおこなわれた。
戦争が始まり国土防衛の前衛隊として昭和十四年四月一日、消防組を母体に警防団が作り出された(昭和十四年四月一日付「函日」)。銭亀沢警防団は、団長村田平太郎、副団長中宮徳次郎、九島喜四郎、顧問宮島与作、木村巳之松を役員として結成された。この警防団が結成されるまでは、銭亀沢村消防組があり、組頭(くみとう)と副組頭(ふくくみとう)がいた。消防は各大字に一つで、六分団あったという。たとえば、石崎分団は、部長一名、小頭(こがしら)五名、消防手四〇名余りからなっていた。部長は互選で選ばれたが、名誉職的で年配の功労者から選ばれた。小頭は、部長の指名によって選ばれた。また消防手は、青年団を終わり、村の中で品行方正な者の中から選ばれた。消防手に選ばれることはたいへんに名誉なことであったという(倉部善太郎談)。
昭和二十五年から消防団に参加した人の話によると、当時の銭亀沢村には、ポンプ消防車はなかったが、隣の戸井町と函館市にあり、火事の時には銭亀沢村へ出動していたという(倉部勇一談)。昭和三十一年版の『村勢要覧』によると、消防機構は、団長一名(木村幸太郎)、副団長二名(武井安郎兵、木村千代吉)、分団長七名、副分団長七名、班員一七名、団員一一九名で、「消防現勢力」として小型動力ポンプ七、腕用ポンプ七、消防栓一四と記載されている。
昭和三十年代、村の消防団は、根崎分団、志海苔分団、湊分団、銭亀沢分団、古川町分団、豊原分団と石崎分団の七分団に分れていた。石崎分団の組織は、分団長一名、副分団長二名、班長五、六名、部長四名および隊員四〇名余りであった。分団長と副分団長は、班長以上の幹部が決め、分団長の後任は副団長がなることが多かった。分団長は、村の団長の指示にしたがって部下に命令を出し、副分団長は、分団長を補佐するのが役目であった。部長は、石崎内の地区を代表するように選出された。班長は、分団長、副分団長と部長が集まって決めた。隊員は、出稼ぎをしない人の中から班長が訪問して、相手の希望を聞きながら選出した。もともとは字ごとに隊員を出していたが、最近では地区全体で一本化して隊員を補充しているという。
活動内容は、消防活動、台風の時の警戒、水難救助(現在は漁業協同組合に救助隊がある)、石崎八幡神社の祭典の時の夜警活動などである。その他の活動は、年に二度おこなわれる小学校の校庭での消防訓練、一月四日恒例の出初式への参加や年数回の会合の開催であった。
昭和四十一年十二月に函館市に銭亀沢村が併合されてからは、全体が函館市消防団の傘下に入った。七つあった分団は、四分団に統合され、銭亀第一分団(根崎分団と志海苔分団が統合)、銭亀第二分団(湊分団と銭亀沢分団が統合)、銭亀第三分団(古川町分団と豊原分団が統合)、そして銭亀第四分団(石崎分団)となった。地区内で火事が発生した場合には、地区内にある小型ポンプを利用して旧市内から複数の消防車が到着するまで、初期消火活動にあたることになっている。現在は、函館市東消防署の古川出張所が地区内にあり、消防車も配備されている。