このうち、湊青年倶楽部は、当初、数名の若者からなる金銭の積み立てを目的とした貯蓄会であったが、明治四十四年、京谷三之助という警官が管内に駐在し、一般社会の風紀衛生改善が図られて、貯蓄会を発展的に解消し、大正二年八月二十日に「湊青年倶楽部」となった。
この組織は、七〇名余りの会員をもって設立され、その役員は、部長を木村豊吉、副部長を九島喜代吉として代議員五名、理事三名、取締役八名から構成されていた。
この倶楽部の目的は「各自の品行を慎み、相互の交誼と云ふ事を悖くし、善事を進め、悪事を戒め、又た研鑽を怠らず、智徳を進め、志気の振作を向上せしめ、加ふるに地方の進歩発達を図り、風俗の矯正を計るべし」とされた。その主な事業は、①基本財産の構成、②水陸産の調査研究、③風俗矯正、④村社祭礼の施設、⑤教育上に関する補佐、⑥入隊除隊軍人の送迎、⑦天災時等事故時の救助・救済などであった(大正二年十月八日付「函新」)。
石崎の青年団の場合、青年団には、主に年間を通して長い間村に居住している人が入ったが、昭和十年代には、若者は出稼ぎに出る者が多く、このために青年団に入りたくても入れない人もいたという。青年団は、厳格で活動が活発だった(能正庄一郎談)。
石崎青年団の年齢層は、一八歳くらいから二四、五歳までで、結婚するまで入団している人が多かった。団体の役員は、団長一名、副団長一名、村祭りのための演芸部長一名そして村祭りの相撲のための運動部長一名であった。役員の任期は二年で、人によっては二期以上務める人もいた。選挙ではなく、推薦によって決められた。そして通常は、副団長が次期の団長へと昇任した。
石崎青年団の活動は、村祭りの余興、弁論大会や勤労奉仕などであった。第二次世界大戦以前は、石崎の八幡神社の祭典は旧暦の八月十五日で、この沿岸の最後の祭りにあたり、二、三〇〇〇人の人が集まった。そして盛大な演芸会や相撲大会などの余興がおこなわれた。青年団は、二、三日かけて相撲の土俵や丸太で舞台を作り、盆踊りのやぐらを組んだりした。また、昭和十年前後には、村の将来や産業、青年の主張などをテーマとした弁論大会も実施された(昭和十年三月七日付「函日」)。戦時下の勤労奉仕としては、昆布礁の投石などをおこなっている。
昭和九年十月十七日には、石崎青年団創立二五周年記念式が挙行され、渡島連合青年団代表出席のもと団員追悼会と祝賀会が催されている(昭和九年十月十五日付「函日」)。また、同九年三月の函館大火時、根崎村青年団では、根崎海岸への漂着遺体の処理・遺体捜査・避難民への炊き出し・救助などの大きな功績があった(昭和九年六月一日付「函日」)。
戦時下の昭和十六年には、銭亀沢村の青年団は、大政翼賛会と国防婦人会へと変っていった。これにより、全国的に「少国民」が新たに青少年団として組織され、渡島青少年団、宇賀浦青少年分団などが結成された(昭和十六年一月十九日、二月二十日、三月十六日付「函新」)。大政翼賛会には、男性全員が加盟したが、この会には徴用の権限があった。また、小学校を卒業した入隊前の若者に対し、在郷軍人が地元の小学校を使って軍事教練をおこなう青年学校が戦時中には存在していた。
戦時中の出兵により、村には若い男性が少なかったので、昭和二十七、八年頃までは青年団活動はおこなわれなかった。昭和三十年代になると地域と漁業協同組合の青年団の活動が盛んになり、村内には、青年団が一七団体、延べ団員数は八六一名になった(昭和三十一年版『村勢要覧』)。地域での青年団活動は盛んで、夏祭りの準備、冬の弁論大会や楽器演奏をおこなったり、村会議員選挙運動などもおこなった。古川町青年会議ではソロバン大会、読書会や演芸会などの文化活動と歴史の勉強会の実施など学習活動がおこなわれていたという(本間新談)。
昭和四十年代に入り、漁業離れと高齢化が銭亀沢地区で進むにしたがって、青年団員の数は減少し、活動が低迷しはじめた。
表3・3・11 青年団一覧
名 称 | 設立年 | 団員数 | 団長名 |
石崎青年団 | 明治43 | 175 | 荒木玄洞 |
古川町青年団 | 大正2 | 130 | 松田常蔵 |
湊青年倶楽部 | 大正2 | 64 | 九島喜代吉 |
銭亀青年団 | 大正2 | 95 | 高井長次郎 |
志海苔青年団 | 大正2 | 75 | 中宮石蔵 |
根崎青年団 | 大正3 | 50 | 吉田民治 |
銭亀沢村総合青年団 | 大正11 | 589 | 桜井栄三郎 |
銭亀沢村総合女子青年団 | 大正13 | 171 | 同上 |