銭亀沢地区の漁業集落は、函館市内の湯川地区から函館市に隣接する亀田郡戸井町まで、約一〇キロメートル続く津軽海峡の海岸沿いに、根崎町、志海苔町、銭亀町、新湊町、古川町、石崎町と連なっているが、その立地条件などから、その屋敷形態は大きく、古川町・新湊町とそのほかの集落という二つのタイプに分けられる。
古川町は汐泊川河口東岸に広がる平場に立地しており、奥行の深い広い砂浜を使って、近世中期から鰯曳網漁を中心とする大規模な漁場経営がおこなわれており、近世段階から間口が数十間に及ぶ大規模屋敷地が並んでいたと考えられる。中でも木村千代吉家は、主屋は建て替えられているが、米倉、網倉、石倉などの倉庫、そして納屋と呼んでいる番屋の建物が残り、かつての鰯漁場経営の様相を復原的に考えることができる貴重な家である。また、新湊町も干場の間口を大きく取った鰯場の地割がなされている。
それに対して古川町・新湊町以外の集落の屋敷形態は、ほぼ共通して背後の標高二〇メートルほどの海岸丘陵と前面の浜とのさほど広くはない場所に、間口一〇間(約一八メートル)以下の、ほぼ同規模の屋敷を短冊状に連ねている。屋敷内は、背後の山から畑、主屋、干場、現在の国道をまたいで干場があり、さらに物置、浜と並ぶ。昆布漁に必要不可欠な干場が屋敷配置を特徴づけているといえるだろう。国道以前の道路はもちろん広いものではなかったが、交通・流通の機能は十分果していたという。浜側については堤防が設けられる過程でかなり地形が変化している場所があり、丘陵側も戸井線のために地形が変えられており、かつての集落景観を考えるためには、漁業経営のありかたとともに、聞き取りによる確認ないし復原的な考察が必要である。
なお、このような屋敷配置がいつ頃成立したかは確認できないが、昆布漁を中心とした漁業形態確立と関係があることは確かであり、青森県など近県の漁場の屋敷形態との比較検討も必要である。