字志苔は東端を瀬戸川、西端は亀屋川東約一三〇メートルに境界がある。北側は段丘を境にしており、志苔川沿いに幾分山側へ迫出してはいるものの、基本的には海岸線に沿った帯状の地域である。明治四十五(一九一二)年の「銭亀沢村土地連絡実測原図(以下、「土地連絡図」と略)」によれば、間口六間から八間、奥行は自然地形によって一五間から四〇間の細長い宅地が道路に沿って山側に並んでおり、短冊状地割となっている。
短冊形地割は中世の都市(京都・市・宿)に始り、近世期に間口に対する賦課を与えられ整備された。権門や寺院の境内周縁部集落、街路や自然地形に沿った線状集落が、短冊形地割される場合、上級権力ないし惣などの地場の権力においておこなわれ、間口に課税されるため間口規模が揃えられたと考えられる。このような歴史的な規定をもって短冊形地割の用語は使われているが、本稿で扱う銭亀沢地区の海産干場とそれにともなう宅地は、間口・奥行規模が異なり、統一的でないこと、また、間口に対する賦課が確認できないことなどから、短冊形地割と概念規定できない。しかし、地割は短冊形地割に準じており、本稿では本文に述べた間口五間から一〇間程度、奥行は自然地形に規定される細長い地割が海岸線に沿って連続する地割全体を短冊状地割と呼ぶ。
宮崎美恵子の研究(「一八七〇年代における志苔村の様相について」『地域史研究はこだて』19)によると、道路の海側も宅地に対応する間口で区画され、宅地所有者の海産干場(海産干場は昆布場を意味し、字志苔では鰯場が別途記載されている。字銭亀沢では、鰯場を含むかどうかは不明)であった。現在でも道路を挟んで浜側の干場と山側の宅地は一連の屋敷地で、住宅は段丘側である。すなわち、細長い屋敷地の中央部を横切って道路が走っているといえる。
銭亀沢地区は和人地の村のなかでも、干場の個人所有が早くから進んだが(鈴江英一『北海道町村制度史の研究』一九八五)、字志苔においては一六世紀末期に最初の割渡がおこなわれた。まず志苔川と亀屋川の中間部から割渡が始り、一七世紀から一八世紀前期にかけて、その西側へ広がり、一九世紀中頃にはほぼ村内の海岸線すべての割渡が終了した。宅地については、干場と宅地が一連のものと考えられること、および浜側の宅地の所有者の名字がそれに相対する山側の宅地の所有者名字と一致し、分家による分割と考えられることから、干場割渡は宅地をともなっていたと思われる。浜側の宅地の所有者名字は、一六世紀に割渡された高埜孫兵衛を除いて、すべて山側の宅地所有者名字と一致している(第一章第四節参照)。
そこで、宅地の区画を干場割渡年に従って見ていくと、まず志苔川東部に菊池姓一区画、そこから東に一三〇メートルほどの亀屋川西部に寺田姓による四区画が現れる。ついで菊池区画と寺田区画の間に平野一区画、および志苔川西部に高埜一区画と栗山一区画が二〇メートルの間隔で現れる。一七世紀には最初に現れた菊池一区画の周囲に菊池姓で数区画され、引続きこの部分は一八世紀前半にも菊池姓を主として区画が増加する。また同時期に志苔川西部、当初の高埜栗山二区画部分にこれは姓の異なるメンバーによる区画が増加する。このように宅地の区画は、一族グループを基本にした数筆のまとまりを持ち、しかもそのまとまり相互は間隔をおいているのがわかる。また、一六世紀段階で区画された寺田・平野・菊池の区画は段丘上の志苔館の下、南側に接する場所であるのが注目される。
志苔村の村域には、江戸期の東部境界に摺鉢石が置かれていた。この地点の段丘上部は志苔墓地である。西部は瀬戸川が湯川村との境界であったが、村は志苔八幡神社付近までと考えられていた。志苔八幡神社は、一六世紀末勧請といわれ、干場の割渡開始と時期が同じである。一八世紀後期以降割渡がすすみ、神社は字志苔の集落の中央部に位置することになった。神社は産土社(うぶすなしゃ)として集落の象徴になり、一九世紀には制札場が志苔八幡神社の参道入口鳥居下にあった。