津軽海峡両地域とも、明治中期以降から前沖ではニシンが姿を消し、それに変わってイワシやイカ漁が盛んになってくる。
イワシ漁は曳網(地曳網)を使用し、肥料用の搾滓に加工した。イワシ漁は明治から大正時代にかけて両地域の重要な産業となった。北海道松前郡福島町白符では、イワシの漁期は十月中旬から十二月までであり、当初曳網を使用しておこない、漁法は、前沖にイワシの漁群が現れるとドンブネまたはドウブネと呼ばれるサンパ(船)で、漁群を囲むようにして網を入れ、浜まで帰ってきて皆で引き上げる。また、昭和十七(一九四二)年頃から木古内でマキ網(アグリ網)を導入したために、イワシが回遊してこなくなったため、白符でもマキ網を導入した。この漁法は、イワシの漁群を発動機船二艘で取り囲むようにして網を降ろして行き、運搬船に積み込み浜まで運ぶ。さらに同二十年代に入ると建網(改良落とし網)を導入した。漁法は、定置網であることから漁群が網に入るとホッツのオコシブネとワクブネとが網を起こしワクブネに積んで浜まで運ぶ。またこの漁法は、網造りや漁法に技術を要するため、青森県の上北郡野辺地町、八戸市、下北郡佐井村などから船頭や網大工を呼び寄せた。
浜に運んだイワシは、鉄釜で煮て胴で油を搾り、カスをとる。油は仲買人に売り、カスは春に浜で干し、肥料として主に函館の問屋に出荷した。
『大畑町誌』(笹澤魯羊 昭和三十八年改訂五版)の「鰮漁」によると
鰮漁は丸木舟を用い地曳網で行われた。〈中略〉初め鹿島網を使用したが、寛延三年に仙台領の大倉吉郎次が水沢網を鬻(ひさ)ぎ来つた。鹿島網は糸が太く水切れが遅いため操業に骨が折れた。水沢網は糸が細いので水切れが速く操業も軽快であった。寛政には水沢の竹屋三郎助が更に改良を加えた網を持参して、この海辺一帯え盛んに売弘めた。水沢網は水沢藩の微禄士族の内職にしたもので、明治維新の後まで地方に於て使用された。
と記されている。
また、地曳網は房総半島の九十九里浜あたりから、太平洋沿岸を北上して、伝えられたものと考えられており、青森県三沢市四川目では、この網を関東袋とよび、大正初期に関東衆とよばれる漁民がきてイワシ漁をおこなったという。
このことは、盛岡南部藩の留山制度とも関係している。それは、宝暦十(一七六〇)年の盛岡南部藩の林政大改革による総留山制で下北半島の人びとが生業である樵の職を失い生活が困窮したため、藩が海岸の村々に房州から漁業技術者を招いて、先進地の漁法を伝授させたことなどからも考えられる(笹澤魯羊「春鰊と鰮漁」『東通村誌』昭和三十九年改訂再版)。