(3)亀ケ岡式土器文化

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概要  数千年間続いた縄文文化も晩期をもって終末を迎える。遺跡数が減少した後期に比較して、約3千年前からの晩期には海岸沿いの地域で遺跡が増加する傾向を見せる。後期中葉から後葉にかけて全道的に斉一性がみられた土器文化圏は崩れ、晩期にはふたたび西と東の異なった土器文化圏を形成し、本州に近い道南は、本州東北地方から中部地方にかけて盛行した亀ケ岡式土器文化圏に組み込まれる。本州から遠い道央では斜行縄文や平行沈線文、撚糸圧痕文が施された深鉢形や浅鉢形土器が主となったタンネトウL式土器が分布するが、さらに遠い道東では後期末から晩期初頭の土器はみられるものの、それに続く土器がないまま晩期終末となり、終末にヌサマイ式や緑ケ岡式土器が出現する。
 亀ケ岡文化が発展した背景として、東日本に豊富なサケ・マスの存在があげられてきたが、忍路土場遺跡をはじめとした縄文時代後期から晩期の低湿地遺跡から各種の堅果類、各種の果実種子が多量に出土しているほか、栽培種の花粉や栽培植物種子も出土し、動植物資源利用の多様化が文化の発展に大きく寄与していたことが考えられる。
 この時期には土器の文様・形は芸術の粋にまで高められたが、亀ケ岡土器文化に固有なものは土版・岩版・漆工芸といった非実用的なものしかみられない。祭礼に用いられたと考えられる石刀、土偶や土製の仮面、漆塗りの櫛などの装飾品といった、非実用的な道具の生産技術が高度に発達し、余剰生産物が再生産に向けられず、祭礼などの儀式を繰り広げるなかで消費されたものと考えられる。
 
土器  亀ケ岡式土器は道南から道央の石狩低地帯までは分布が濃密で、時代が新しくなるにつれて石狩低地帯での影響力が薄れ、その広がりが縮小する傾向がみられる。北海道に分布した亀ケ岡系土器は前葉の大洞B、B−C式、中葉の大洞C1、C2式、後葉の大洞A式に区分されている。
 前葉の大洞B式ないしはB−C式に対比されるのが、松前町高野遺跡で出土した磨消し文、三叉状入組文などが施文された深鉢、台付鉢、壺形の精製土器と、亀ケ岡式土器にはみられない縄文を主体とし口縁部に数条の爪形文をめぐらす粗製土器で、その後に上ノ国町竹内屋敷遺跡から出土した、羊歯状文や爪形文が施文された上ノ国式土器が続く。
 中葉前半の大洞C1式土器には、深鉢、浅鉢、台付鉢、皿、壺、香炉形土器があり、磨消し縄文による雲形文、沈線や刺突文、羊歯状文、三叉文などが施文される(第37図1~6)。道南の津軽海峡に面した地域に多くの遺跡が分布するが、この時期の壺形や皿形の精製土器は道央まで運ばれている。
 中葉後半の大洞C2式土器は道南を中心に分布する。台付鉢、浅鉢にみられる波状の口縁、口縁下のB字状突起、雲形文や工字文風の文様が特徴であるが、曲線的な動きがあるものから直線的な動きの少ない文様へと変化している(第37図7~14、第38図2~4、8、10~11)。器形変化が少なく、特殊な器形のものが減少する。代表的な遺跡が七飯町聖山遺跡、上磯町添山遺跡、札苅遺跡、日の浜遺跡などで、渡島半島以北では地方色が濃くなって日本海岸沿いに広がった一群と、太平洋岸沿いに広がった一群がある。
 後葉の大洞A式に相当するのが日の浜式と呼ばれる土器群である(第38図1、5~7、9)。沈線と浮文によった装飾が多用され、太いヘラ描き沈線による工字文が特徴である。深鉢、浅鉢、台付鉢、皿、壺形土器があり、注口土器は姿を消す。日の浜遺跡、聖山遺跡、添山遺跡などの大遺跡が知られている。日の浜式土器の壺や鉢などの精製土器は、道央のタンネトウL式、道東・道北のヌサマイ式土器文化圏にも移出され、在地系の土器とともに出土しているほか、津軽半島北部にも分布する。後続する大洞A'式に対比される土器は、日の浜遺跡や森町尾白内遺跡などから出土しているが、まとまったものは少ない。

第37図 大洞C1式、C2式土器(1~6、大洞C1式、7~14、大洞C2式)
野村崇「北海道の亀ヶ岡文化」『北海道の研究 1』清文堂、1984


第38図 日の浜遺跡出土の大洞C2式・A式土器(2~4、10~11、大洞C2式、1、5~9、大洞A式)
野村崇「北海道の亀ヶ岡文化」『北海道の研究 1』清文堂、1984

 
住居  住居跡の発見例は少なく、道南では札苅遺跡で中葉の住居跡が2軒(木古内町教育委員会、1974)、日の浜遺跡で後葉の住居跡(写真4)が1軒発掘されているだけである。札苅遺跡1号住居跡は国道工事によって半分が破壊されていたが中葉の大洞C1式土器を伴うもので、直径3.1メートルの円形で中央に土器を埋設し炉として使用されたもので、壁に沿って深さ4~5センチメートルの浅い周溝がめぐっている。2号住居跡は1号住居より新しい中葉の大洞C2式土器を伴う円形の住居で、4本の周溝をもつことから3回の建て替えがあったものと考えられる。最大径は5.7メートル、最小径が3.8メートルで、中央には焼土があり、石囲いの一部と埋設された土器の底が発掘されている。日の浜遺跡の住居跡は日の浜式土器を伴った、直径7メートルのほぼ円形に近い住居で、壁際に幅20センチメートルで深さ35センチメートルの周溝がめぐり、床面には焼土と3個の主柱穴と多くのピットがあった(第39図)。

4、晩期後葉の住居跡(日の浜遺跡、昭和41年、吉崎昌一撮影)


第39図 日の浜遺跡で発掘された縄文晩期の住居跡

 
墳墓  後期に集団墓が発達するが、その末期には集団墓の形態が崩れ、晩期になるとはっきりした区画をつくらない墓へと変化する。各地で発掘された晩期の遺跡の大半は墳墓群である。札苅遺跡では第40図のような大洞C2式土器をともなう60基の土壙墓が発掘された。土壙墓の大きさは1.4メートル×0.8メートル前後の隅丸長方形で、長軸方向の大部分は北西−南東方向をむく。墓壙の上部には砂利を積み上げ、壙底には赤色顔料が散布されていた。副葬品として土器や玉類、サメの歯、漆器、石刀、長身の有茎石鏃などがある(北海道開拓記念館、1976)。

第40図 木古内町札苅遺跡で発掘された縄文晩期の土壙墓
野村崇ほか『札刈』北海道開拓記念館、1976

 
石器とその他の遺物  第41図に示したのが日の浜遺跡から出土した、石鏃、つまみのあるナイフ、石錐、磨製石斧、各種のスクレーパーで、特殊な遺物を除けば、その組成は縄文時代早期以来の縄文文化の石器組成としてとらえられるとしている(吉崎、1965)。
 特殊な遺物としては石刀、土偶、円板状土製品、三角形土製品、糸巻形土製品、腕輪様土製品などがある。津軽海峡をはさんだ津軽半島と渡島半島の亀ケ岡文化の遺跡からの出土例が多い内反りの石刀は、その起源が大陸の青銅刀に求められることが多いが、詳細は不明である。完全な形で土壙墓に副葬された唯一の例が札苅遺跡で発見されているだけで(第42図1)、多くの場合には破片で出土する。第42図2~4のような小型な板状土偶も札苅遺跡などで多出し、多くの場合、首、足、腕や胴などを故意に折った形跡がみられ、土偶の身体破損にともなった儀礼があったと考えられる。円板状土製品、三角形土製品(第42図5)、糸巻状土製品(第42図6)も非日常的用具で、使用方法は不明で、腕輪様土製品(第42図6)のように小石をはめ込んだようなものもみられる。

第41図 日の浜遺跡で発掘された縄文晩期の石器
吉崎昌一「縄文文化の発展と地域性1北海道」『日本の考古学Ⅱ』河出書房新社、1965


第42図 縄文晩期の特殊な遺物(札苅遺跡:1、石刀、2~4、土偶、5、三角形土製品、6、糸巻状土製品、7、小石をはめ込む装飾品)
野村崇「北海道の亀ヶ岡文化」『北海道の研究1』清文堂、1984