1、2級町村施行当時の郷土のようす

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 郷土尻岸内村は、この年戸数826戸を数え、人口は4,273人(男2226・女2047)、箱館六ケ場所以来の漁場としての盛況に加え、硫黄鉱山の町として発展しつつあった。
 この硫黄鉱山は、古武井川上流、約9キロメートル一帯の地層に広がる沈殿鉱で、埋蔵量も当時国内有数ものであった。明治34・35年(1901・2年)、根釧・函館の実業家山縣勇三郎と横浜の鉱山主押野常松が操業に着手するや、鉱山労働者や関係者らにより、人口が1.5倍に増加、特に、比較的住民の少なかった古武井地区(現字古武井・字日ノ浜・字高岱)が急増、定期船の寄港も頻繁になり、鉱山まで馬車鉄道を敷設するなど、人口の分布(註 表明治44年尻岸内村地区別戸数・人口参照)・産業経済の中心地がこの地区へ移ってきたことから、明治36年(1903年)、これまで武井(現在の字豊浦)にあった戸長役場が古武井(現字日ノ浜)へと移転する。以降、庁舎は2度改築されるが所在地は引き続きこの地区となる。なお、移転当時の庁舎は現在も工藤勘次郎宅(字日ノ浜150)として使用されている。

明治44年(1911年)の尻岸内村地区別戸数・人口

 この庁舎については、尻岸内村財産目録(明治36年~大正10年)建物ノ部に[尻岸内村役場庁舎]・所在地字古武井129番地の乙、木造平屋・坪数38坪7合5勺とあり、得喪(とくそう)年月日及事由の欄に「明治39年6月18日無償付與(寄贈)」と記載されている。さらに庁舎付属の便所・物置・木柵・門も、その欄に、庁舎同様同年月日付けで無償付與とある。付与の相手方についての記載はないが硫黄鉱山経営者以外考えられない。明治36年に建築以来無償貸与を受けていたものを、明治39年の2級町村施行を機に無償付与・村の財産としての手続きをしたものと思われる。
 このように、当時の郷土は、硫黄鉱山の操業により人口は増加・雇用が拡大し、函館との大型定期船の寄港が頻繁となり、物資は流通し、商店も盛業等々、さらには村税収の著しい伸びなど、まさに硫黄景気にわいた時期であった。