3、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村村会議員

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 明治39年4月1日2級町村制の施行に伴い、尻岸内村村会も村役場とともに認可され、執行機関(村役場)に対して議決機関(村会)という、地方自治の基盤となる組織が、権限の上で国の強い制約はあったものの一応は整ったことになる。
 これにともない、これまで限られた中での民意の集約の場であった「総代人制・総代人松本福松・佐々木音右エ門」を最後に、村会議員制へと代わり、同年、遡って3月初め、尻岸内村初の村会議員選挙が実施されたわけである。
 なお、町村会規定については先に述べたが、議員定数12人、任期2年で全員改選。町村会議長は村長。主な職務は、村条例の制定・村営造物の管理方法の決定・村費用支出事業の議決権はない。軽易事項は書面持回り議員の3分の2の合意で議決。議決取消処分に対しての不服訴訟は許さない等、不備のあるものであった。
 また、村会の議員の選挙資格者は、公権を有する満25歳以上の男子、戸主で1年以上の村居住者で、納税額・土地所有が「地租年額10銭以上の納入者」「直接国税・北海道水産税、両方で年額50銭以上の納入者」「町村税平均額以上の町村税の納入者」「耕地1町歩・宅地100坪以上の所有者」とされ、明治43年の第3回選挙では選挙資格者は306人であった。明治43年の人口は4,486人、戸数953、戸主953人であるから選挙資格者(有権者)は、この制度でさえ32%にしか過ぎなかった。現行に照らした場合7~8%程度と推測される。
 
村会議員(明治年間)
第一回選挙第二回選挙第三回選挙第四回選挙
(明治三九・三)(四一・六・一)(四三・六・一)(四五・六・一)
若山 徳造谷内 嘉門高橋 常之助高橋 常之助
谷内 嘉門大島 菊四郎笹波 清次郎柳本 三郎
大島 菊四郎山田 司柳本 三郎東 三吉
佐藤 徳蔵高橋 常之助東 三吉三好 好松
疋田 嘉重笹波 清次郎三好 好松平島 林七
三浦 綱蔵柳本 三郎平島 林七野呂 弟吉
藤田 平作佐々木 酉之助野呂 弟吉河村 儀市
山田 司大坂 力松河村 儀市田口 角太郎
水島 豊四郎三上 長作田口 角太郎谷 勘之丞
高橋 常之助梅津 丑次郎佐々木 伝右エ門佐々木 伝右エ門*
笹波 清次郎東 三吉谷 勘之丞山田 長平
柳本 三郎三好 好松山田 長平玉井 長次郎
(山田 司*)
*収入役就任の*収入役就任年
ため辞任か期途中辞職
(定員)一二人一二人一二人一二人

 
当時の選挙風景
 当時の村会議員の選挙では、候補者を決めるために、部落ごとに村中寄合いを開き協議をしたり、予備選挙を行ったりしていた。
 このことについて、尻岸内部落協議会の議事録・明治41年5月29日の項に、
 「来る村会議員改選に就いては本村(尻岸内部落)三名候補者として推選すること、前記三名選挙する余り投票は、従来の日浦・本村との円満上之を日浦に援助すること」と日浦との談合について記されている。
 また、選挙当日、有権者は自分の投票権を他人に委任することができるというのんびりしたものであった。尻岸内部落の経理関係の古い文書には、
 「明治四十四年二月三日、村会議員選挙に付き女那川方面委任状取り纏め賃金支払い、一円五〇銭」とあり、投票委任事務費が後日支払われた記録が残されている。同じく、同45年6月1日「村会議員選挙のため出張六人分旅費、五円八銭」と、選挙当日支払われた記録も残されている。
 当時の議会活動は、年4~5回開催されて会期は2日間くらいが通例であった。村会の召集については、開会3日前、召集状に議案を添え通知されており、議員は議題・議案について一定の認識を持って参加するようとりはからわれていた。ただ、村会の開催日と昆布採取日など漁業との重なりに苦慮していたようである。その事が、先出、尻岸内部落協議会の議事録、明治41年7月25日の項に次のように記載されている。
 
 「村会議員三上長作氏村会出席に就いては、是れがため昆布の沖止めを為すは、字(部落)一般に対し非常の不利益たり、去りとて強いて(村会に)出席を求むとせば同人昆布の損害あり、これを弁償するとせば、現今、字に於ける総ての組織上多数の弁償を要する場合なきにあらず。故に三上氏に対しては村会に日通いを求め、然して昆布の採取時を早め、終りを繰り上げて、字、及び三上氏の不利益を減ずる事にする。」
 
 また、村会出席の議員の服装については、品位を保つために紋付羽織・袴で出席していたが、大正4年の町有文書に「村会議員は服装正しきも、時間を恪守せざる遺弊あり、議決は敢て不当のものもなく、能く慎重審議の上を処決す、党派的関係更になし」とあり、議事運営はともかくとして、時間を守ることについては相当ルーズであったようだ。