[1級町村制施行の辞退と当時の村財政]

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 明治39年(1906年)4月1日、2級町村制を施行以来、村勢の順調な発展をみせてきたわが郷土尻岸内村は、昭和8年(1933年)8月19日、渡島支庁長より1級町村制の施行を勧められたがこれを辞退。3年後の、昭和11年(1936年)12月、再び勧告を受けたが、これも辞退している。前述、昭和2年の2級町村制の全面改正以降、1・2級町村制の大差はなくなったとはいえ、未だ、2級町村制より幾つかの権限を持つ1級町村への昇格は、郷社(註、神道が国の宗教であった当時、「郷社」は、その郡下の住民の教化の中心であり、精神的シンボルであった)八幡神社を頂く尻岸内村にとって「村の格」ともなった筈である。にも拘わらずの辞退である。この理由については後述することとして、尻岸内村の2級町村制施行以降、昭和前期(戦前・戦中)までの村勢を、幾つかの数量からごく大まかに見てみる。

明治39年度(1906)から昭和19年度(1944)の人口・産業・村予算の状況

 この資料からは、大正7年の、関係者千700人ともいわれた古武井硫黄鉱山の閉山を乗越え、郷土が順調に発展している様子が窺える。確かに1級町村制を施行しても恥ずかしくない町勢ではあるが、結局、(6)の税制でも述べたように、昭和5年の経済恐慌、続く昭和6年・翌7年の凶漁冷害による村財政圧迫が、辞退する要因となったのである。
 まず、昭和5年度の収支について、
 
〈昭和5年、丹野村長の村会での報告演説〉
 昭和五年度の歳入歳出規定予算は、七九、三九二円の所、追加更正の結果、現在予算額は、一〇七、九八一円に膨張せり、右は臨時部に於いて昆布礁災害復旧資金貸付金の繰越しに因るものであり、前年来の財界の不況は益々深刻の度を加え、年末景況を観るに未曾有の不景気にして、村税の滞納者続出し、納入歩合六七・四%と言う曾て見ざる不成績を示し、全く金融途絶したる感あり、為に歳入順調ならず年末に於いて支障来したるは洵に遺憾とする所なるも、爾来極力之が整理に努め経理の調和を図らんとす。
 
 このような昭和5年の村財政の状況に続き、昭和7年・8年も凶漁冷害に見舞われ、村は緊縮財政の方針をたて収支の均衡を図らなければならなかった。ときの斉藤照蔵村長は昭和8年度の予算執行に当たり村会に、次のような報告をしている。
 
〈昭和8年、斉藤村長の村会での予算執行報告〉
 予算経理は常に収入状況と相俟って深甚の注意を払い経理をなしつつあるも、連年の凶作の為め収入は思わしからずに反し、支出は毎年増嵩を示しつつある状態なり、然れ共毎月の定期支払いには支障なきも、その他の支払いは現在に於いて非常に困難なり。
 この年、昭和7年度の決算であるが、大幅な赤字となっている。

[表]

 
1級町村制施行の辞退
 昭和8年10月9日、郷土尻岸内村へ渡島支庁長より親庶「第66号」により「来る昭和9年4月より貴村に対し1級町村制の施行を相当と認めるも、貴村の意響に就き回報相成度」と照会があった。これを受けた斉藤照蔵村長は、村会を招集協議の上、今日の村財政力から1級町村制の施行が困難であるとの回答をし、辞退をしなければならなかった。
 
 〈昭和8年10月24日、斉藤村長の回答〉
「昭和九年四月より施行するを適当ならずと認むる理由」
 本村は生産に乏しく一般村民の資力なく随て村経済甚だしく窮乏貧弱なる処、昭和四年駒ヶ岳噴火に因り非常なる災害を蒙り、村民の生活資源たる昆布礁は荒廃に帰し、爾来工費一四万二千四百円を投じて復旧事業を起し、漸く昭和七年度に於て竣功したるが為、其の財源として三万六百円を北海道地方費より借入れ、年三千三百円即ち一戸平均約三円五〇銭の償還をなさざるべからざる現状にありて、村民の負担容易ならざる処へ、昭和七年九月大洪水の慘害を蒙り死者四名、流失及倒壊家屋二五戸に及び粒々辛苦の許に竣功したる昆布礁は再び埋没の慘害を蒙り、総被害一七万八千余円の巨額に上り、村民の疲弊極度に達し為に納税上に甚しき悪影響を及ぼし、昭和七年度の滞納額実に一万五千円の巨額に達し、村経済の維持困難に陥り、歳入欠陥補填借入金一千五百円の起債に依り辛うじて経理したる現状なり。
 本年亦本村生産物の大部分を占むる昆布は、採取時期に於て天候に恵まれず、其の産額著しく減じ、平年度の三分作前後に過ぎず、又本村の主要生産物たる柔魚(イカ)漁は今に至るも好漁を見ず、今後如何にして村民の生活を維持すべきや、洵に憂慮に堪えざる処なり、僅かに将来本村漁業の振興策として企図したる、船入澗築設工事並に道路災害復旧工事の労銀に依り糊口を凌ぎ居る状態にあり、村経済も之に準じ非常の窮状にあり、此上村民の負担を増し難く昭和九年度より1級町村制を施行を適当ならずと思料せられ等今後、村内の経済力の発達を俟って適当の時期に於て昇格せられんことを請う。
 
 その後、昭和11年(1936)12月、渡島支庁長より再び1級町村昇格への勧めがあったが、村会に諮問の上、辞退している。生産性の向上により村財政も立ち直りつつあったが、巨額の負債未償還額が1級町村昇格への決断を阻んだのではないかと推察する。
 そして、村当局は1級町村という自治体としての格上げより、堅実な村政・村民の実質的豊かさを選択したものと推察する。

①昭和7年度 総生産額 436,368円


②戸数、人口の推移


③1級町村制施行後による経費増加見込み 歳入総額131,319円


④負債未償還額