[部落会の廃止と連絡員制度]

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部落会の廃止
 町内会・部落会の母体は、その成立、組織・活動からみて住民の生産活動や生活のための自治組織として発達してきたが、昭和15年(1940年)9月の内務省訓令で市役所、町村役場の補助的下部機関として再編成された。そして、戦時下という時局に照らし、いわゆるお上の、上意下達の官制組織となったのである。
 戦時中の活動としては、貯蓄奨励や割当国債の消化、家庭・地域の防火活動、あるいは統制物資等の配給世話係など、地域の生活に直接かかわる活動から、戦争遂行のための経済(貴金属・金属類の拠出、生活物資の節約、戦争債の消化、労力奉仕等)・啓蒙・支援(“欲しがりません勝つまでは”“鬼畜米英”などのスローガンの徹底、出征兵士の見送り・千人針・慰問袋づくり等)・訓練(消火活動・竹槍訓練など)の活動、さらには大政翼賛会運動(政治的・思想活動)の推進、隣保班を通しての相互監視など、戦争遂行に大きく貢献したともいえる。
 この町内会・部落会・隣組制度は、昭和22年1月22日公布の「町内会、部落会またはその連合会などに関する解散及び就業禁止、その他の行為の制限に関する政令」によって、同年3月31日限りで廃止され、また、町内会、部落会解散後に結成された類似団体も、同年5月31日までに解散することを命ぜられた。
 それと同時に昭和20年9月1日以前から同21年9月1日まで引き続き、町内会、部落会又はその連合会の長職にあった者についても、その活動に一定の制限(公職追放に準ずる)が加えられた。これらの措置(法令)はいうまでもなく、これからの日本の民主主義政治の推進・地方自治制度の改革をはかるための、GHQの指令の1つにほかならない。
 なお、この法令の罰則規定によると、「この法律に違反した者は1年以下の懲役、禁固又は5千円以下の罰金に処し、現に占める公職は勿論、向こう10年間は新たに公職に就くことを禁止する」という、かなり厳しいものであった。
 
占領軍の町内会(部落会)・隣組観
 『Political Reorientation of Japan September 1945 to September 1948』はGHQが、連合軍による日本の占領と管理の経過をアメリカ政府に報告した文書であるが、そのなかに、町内会・隣組の見解を述べている記述がある。
 
 「町内会・隣組の組織は実に巧みに作られており、権力と支配の系統は直接に中央政府、特に内務省に繋がっていた。住民全体に対して、宣伝し、訓戒し、命令し、組織化する場合における、この組織の適格性及び有効性はまさに驚異的なものであった。中央政府が人民の一層強力な戦争協力を望むとき、知事は市町村長に命令し、市町村長は、各人の生活を支配しているこの三つ(町内会連合会・町内会・隣組)の組織の長に命令した」 (十亀昭雄「地方政治と住民組織」より)
 
 すなわち、連合軍は町内会(部落会)・隣組の組織を、あたかも警察的軍事的国家の末端機構であると考えていた。あるいは、軍事目的のために組織したと考えていたと推察される。先にも述べたが、町内会(部落会)はあくまでも今次戦争と全く関係なく、もともとは地域運命共同体として半ば自然発生的に生まれ、部分的には行政の末端の仕事を請負いつつ、地域住民の自治組織として発達してきたことを理解できなかったと思われる。
 
連絡員制度の導入
 GHQのこのような見解などから、町内会、部落会や隣組制度が廃止され、行政事務の一切が、役場に集約されたといっても、実際には当時すべての物資が統制経済にあったため、役場職員だけでは対応しきれず、村民の不便は火を見るより明らかであった。
 そこで、従来の部落会の区域をおおむね踏襲して、その区域の住民から推薦された人々を「連絡員」として村長が委嘱し、村行政の執行と地域住民の活動の一体化を図ったのである。連絡員の業務は、区域内住民の便宜を図ることを第一義とした。すなわち役場事務の援助をすることなどを主眼としたものである。当時、この部落連絡員制度は、現行の地方自治法上の解釈が成立するのかという点で相当論議されたが、「市町村の行政の末端機構は、法令に基づくもの以外これを設けることができないが、1個人を市町村職員に委嘱し、市町村長の権限に属する市町村民との連絡事務等を分掌させることは差し支えない」との結論(解釈)を得て、昭和23年(1948年)3月、『部落連絡員制度』の実施に踏み切ったのである。
 つまり、町内会(部落会)・隣組という組織が、市町村行政事務処理上(当時の吏員の定数からみても)、欠くことのできない働きをしていたということができる。この制度は昭和29年(1954年)まで存続、町村行政に寄与した連絡員の功績は大であった。
 
 『尻岸内村歴代部落連絡員』
部落名  歴代連絡員    在 任 期 間
日浦   前田 清蔵  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     坂本常太郎      五・ 一 ~ 二五・ 七・一九
     土谷与一郎      七・二〇 ~ 二六・一二・一七
     前田 清蔵     一二・一八 ~ 二九・ 三・三一
豊浦   里見竹三郎  二三・ 三・三一 ~ 二三・ 四・ 五
     小野 隆吉      四・ 六 ~ 二五・ 六・二九
     中里 清治      六・三〇 ~ 二九・ 三・三一
大澗   竹中 助三  二三・ 三・三一 ~ 二九・ 三・三一
女那川西 岩船 宗吉  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     岩船 義雄      五・ 一 ~ 二九・ 三・三一
女那川東 勝木広太郎  二三・ 三・三一 ~ 二五・ 四・三一
     谷口精太郎      四・ 一 ~ 二八・ 三・三〇
     門脇  司      三・三一 ~ 二九・ 三・三一
日ノ浜  東 純一郎  二三・ 三・三一 ~ 二六・ 一・一六
     中野 仁吉      一・一七 ~ 二七・ 二・ 三
     岸本 光雄      二・ 四 ~ 二九・ 三・三一
古武井  山田 長平  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     斉藤 兼蔵      五・ 一 ~ 二六・ 三・三一
     成田作太郎      四・ 一 ~ 二九・ 三・三一
恵山西  福沢 勝雄  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     長田定次郎      五・ 一 ~ 二七・ 三・三一
     長田 定雄      四・ 一 ~ 二七・ 三・三一
     谷藤喜之松      四・ 一 ~ 二九・ 三・三一
恵山東  田中兼太郎  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     桑原市太郎      五・ 一 ~ 二六・ 三・三一
     中村 万治      四・ 一 ~ 二九・ 三・三一
御崎   福沢三千年  二三・ 三・三一 ~ 二四・ 四・三〇
     田中 富夫      五・ 一 ~ 二七・ 三・三一
     岩田 音八      四・ 一 ~ 二九・ 三・三一
 
民主化された部落組織
 町内会(部落会)・隣組の廃止について内務省が地方長官に宛てた通達によると、
 
 旧町内会・部落会は廃止するが、新たに、これに代わる任意団体や組合組織を結成することは差し支えない。ただしその運営や事業の内容は住民の民主的によるものであること。また、旧町内会・部落会の財産処分は区域内住民の自由意思だが、その際は三〇歳以上、全員参加による投票決定が望ましい。
 新しく生まれる隣組(配給組)は、配給(後述・食料品等の統制・配給制度は戦時中より実施され、戦後も主食・米・麦類を主に相当長い期間継続された)に関する限りのもので、市区町村出張所の下部につくるものではなく、また、配給機関というものでもない。単に連絡補助の意味をもつに過ぎない。
 したがって、市区町村は配給に関して必要ある場合は、現在の隣組に代わって自治的に生まれた団体の代表者(部落連絡員)に連絡することができる。
 
と、組織・運営方針について説明している。すなわち、政治権力による強制によらず、地域住民の自由意思に基づく新たな町内会、部落会を組織し、自由且つ民主的に運営される自治組織である限り差し支えない、という見解を示したものであった。これは住民にとって、形は同じに見えるが役員の選出方法・活動内容などから、従来になかった画期的な組織として受け止められた。
 町内会・部落会が日本の近代化・民主化を、最も身近に感じられる組織として生まれ変わったのは昭和27年以降のことであり、これは現在に継続されている。