(2)サンフランシスコ講和会議

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 米国政府から、サンフランシスコ講和会議への参加を求める正式招請状が日本政府に届いたのは、1951年7月20日である。政府は24日付で、これを受託する旨の回答を発した。そして、吉田首相自身が首席全権として出席する方針を決めるとともに、全権団は挙国一致の構成とするべく、閣僚から池田勇人蔵相、衆議院から自由党の星島二郎(にろう)、国民民主党の苫米地義三、参議院から緑風会の徳川宗敬、日銀総裁の一万田尚登の参加を得たが、当然のことながら、社会主義国家を含めた全面講和を主張している社会党の参加は残念なことに得られなかった。
 平和条約調印会議はサンフランシスコ・オペラハウスを会場に、同年9月4日から8日まで開催された。ここは6年前(1945年)国際連合創立総会が開かれ、連合憲章の生まれたゆかりの場所である。参加国は52カ国、議事は米国国務長官アチソン議長のもとで進められた。冒頭のトルーマン大統領の名文句が歴史に残されているが、ここでは割愛し、北海道・郷土にとってもっとも身近な北方領土について、ソ連の主張、それにかかわる吉田首席全権の演説について記述したい。
 ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太千島列島までが、日本の侵略を被ったごとき意味を含めて「これらの領域に対し、我が国(ソ連)が領土権を有することは議論の余地なし」として、条約文の修正を要求した。
 9月7日、各国全権の演説終了後、最後に吉田首席全権の受諾演説が行われた。
 その演説のもっとも重要な箇所は、ソ連その他から修正要求のあった領土の処分の問題に関する部分で、次のようなものであった。
 
 『北方領土に関する吉田茂首席全権の演説』
 「奄美大島、琉球諸島、小笠原群島、その他平和条約第三条によって、国際連合の信託統治のもとにおかるることあるべき北緯二九度以南の諸島の主権が、日本に残されるという米全権及び英全権の発言を、私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。私は、世界、特にアジアの平和と安定が速やかに確立され、これらの諸島が一日も早く日本国の行政のもとにもどることを期待するものであります。千島列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉(えとろふ)・国後(くなしり)両島が日本領土であることについては、帝政ロシアも何ら異議を差しはさまなかったものであります。ただウルッブ以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人の混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領として、その代償として千島諸島は日本領とすることに話し合いをつけたものであります。名は代償でありますが、実は樺太南部を譲渡して交渉の妥協をはかったものであります。その後、樺太南部は一九〇五年九月五日、ルーズベルト米合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で、日本領土となったものであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍によって占領されたまでであります」
 
 このような北方領土問題に関する克明な反駁的説明にもかかわらず、ついにソ連の了解が得られなかった。ただ単に領土問題だけではなく、冷戦下で、沖縄や本土に米軍基地が存在する以上、ソ連が戦略的均衡を確保する時代であるならばともかく、今日もなお未解決な理由は理解ができない。
 それはともかくとして、吉田全権の受諾演説をもって各国全権全部の演説は終了した。そして、翌日午後の調印式において48カ国80名の各国全権の調印を行ったが、ソ連・ポーランド・チェコの3国は条約の調印を拒否し、インド・ビルマ・ユーゴは会議に不参加を表明した。
 最後に日本全権団の調印が行われた。昭和26年9月8日午前11時44分のことである。
 この、サンフランシスコ平和条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効、連合国の日本占領は終り、日本は主権を回復し、自由主義陣営の一員として国際社会に復帰することとなった。