昭和60年(1985)1月30日、境界線の協定締結 明治以来、尻岸内町と椴法華村との境界線については、両町村とも互いに主張を譲らず、“百年戦争”などと揶揄されたりもしていたが、不分明な部分について、昭和59年(1984)10月9日、真部渡島支庁長からの調停案が提示され、これに尻岸内町・椴法華村が同意するにいたった。
同意した境界線 『恵山山頂(六一八メートル)から海向山山頂(五七〇メートル)を結ぶ約三キロ区間、途中、高田屋嘉兵衛海上安全碑、四七林班、通称水飲み場を経由して境界線とする』
昭和60年2月7日、北海道知事より境界線決定に関して意見を求められ、同年2月13日、境界線設定について異議がない旨を知事に報告する案件が臨時町議会で可決する。
町名を恵山町に変更する事の確認 町村の名称については、昭和39年以来両町村の懸案事項であったが、境界線問題と同時に決着を図ることで話し合いが進められてきた。
その境界線についての協定が昭和60年1月30日締結した結果、椴法華村は、同年2月13日の臨時村議会において、村名変更条例(椴法華村を恵山村とする)を廃止する議決を行い、道への村名変更申請を取り下げた。
本町の町名変更条例 『尻岸内町の名称を恵山町に改める条例』は、昭和45年12月22日に議決しており、町は早速これに基づいて事務処理を進め、知事からの決定を待って新年度早々の施行を目指すことなった。
『広報しりきしない』1985年 3月号より
“明日への期待を胸に” 新生 恵山町の出発(たびだち)
四月一日から尻岸内町は、恵山町と町名が変わり新たな出発をすることになります。…中略… 町名変更の経過について、これまでのあらましをお知らせします。
町名変更については、町制施行が検討されたのと同じ頃に町民の皆さんから要望が出されました。自治体の名称を改めるということは、町民の皆さん始め社会的にも及ぼす影響の大きいこと、また、それまでの歴史や伝統、町民の皆さんの愛着心等を十分考慮し、ご理解と合意がなければ行うべきことではありません。
昭和三十九年に、町制施行審議と平行して、町名変更についても協議され、議会に町名変更特別委員会が置かれ、正式な審議が行われるようになりました。
町民の皆さんと地区ごとの懇談会を開催したり、各界の代表の方や団体の皆さんのご意見もいただき、慎重に審議されました。
その結果、町民の皆さんは、町名変更を望んでいるご意見が多く、昭和四十四年の六月の定例議会に町名変更に関する条例が提出されました。議会では、さらに慎重に審議するために特別委員会をおいて調査を行っており、椴法華村との協議や町村名を改名した他の町村の調査も行われましたが、最終的に町内全体の意向を確認することが、必要であるとして、四十五年十二月に町内全世帯を対象に、町名変更に対する意向調査を行い、この調査を踏まえて、昭和四十五年十二月二十二日開催の第四回定例町議会で可決され、知事に申請しております。
その後、椴法華村も恵山村と改めたい旨の申請が、当町よりも早く出されていることが分かり、競願ということになりました。さらに、この問題と町村境界の未確定の問題がからみ、十五年余り経過したことは町民の皆様もご承知のところです。この間、前田、三好、野呂、歴代町長も早期実現のために行政努力を続け随分苦労されました。
また、渡島支庁始め、各方面からの温かいご支援をいただきました。このような多くの方々のご支援と励ましに支えられ今日を迎えるに至りました。
心から感謝申し上げます。