酒造業を営んだのは、当時、尻岸内村の赤井松助である。資料に乏しいが、この松助の酒造りについて少し触れたい。赤井松助が郷土尻岸内で酒造業を始めたのは、3県1局時代の初め明治15年(1882年)10月であった。勿論、この時期、郷土での稲作の記録はない。米は総て本州からの移入で、貴重品であることはいうまでもない。それだけに酒造りに懸ける意気込みは相当なものであったのであろう。
酒造場は、尻岸内村字武井泊19番地に所在した。その規模は、倉庫(醸造所)1棟24坪、付属の納屋6坪・麹室3坪。設備・備品では、桶・甕(かめ)1個、酒槽1、男柱1本、締〆木1本、甑(こしき)1個、暖樽木4個、半切桶23個、蒸釜1個、層枠個1、蒸溜甑1個、垂甕1個、兜釜1個、試桶3個、桃桶3個、水汲桶1個、柄杓2本、麹板74枚、櫂(とう)6本と記録に残っている。
酒類の生産高については、明治16・17年度の記録はない(自家消費分程度だったのか、あるいは失敗したのかもしれない)。明治18年度には、清酒13石7斗(1石=1升瓶で100本)・もろみ3石7斗6升。同20年度には、清酒19石2斗4升8合・もろみ19石5斗1升6合・酒粕201貫300匁(755キログラム)の生産を上げている。その後も醸造を続けていたが、杜氏が病気のため故郷の秋田に帰り一時休業すると記録にあり、その後、営業を再開したのかどうか不明である。また、醸造された酒の銘柄などについても不明である。
この頃になると、函館県下でも酒類の生産については、相当盛んになってきたようである。明治17年(1884年)8月11日、函館県令(知事)は甲第26号「酒造心得」という布達を出している。これによると、酒造季節には函館県下を5部に分け−第1部、函館区と亀田・上磯・茅部・山越の4郡、第2部、松前郡、第3部、檜山・爾志の2郡、第4部、久遠・太櫓・瀬棚・奥尻の4郡、第5部、寿都・島牧・磯谷・歌棄の4郡−検査官を派遣し酒造営業について検査取締(課税・衛生)を行うものとしている。勿論これは営業用であり、自家用の酒造については届け出さえすれば認められていた。
本州では造り酒屋はそう珍しくないが、酒造業は先にも述べたが、施設設備に相当な資金が必要である。と同時に杜氏(とうじ)(酒造りの男の頭領)は勿論、熟練した職人を必要とする。加えて米と水と気候が欠くことのできない銘酒の要素といわれている。郷土がそのような条件が備わっていたかは別に、この難しい事業に挑戦した赤井松助という人物について少しふれておく。
初代赤井松助は陸奥国(北津軽郡)北郡野牛村の生れ、天保4年(1833)蝦夷地に渡り茅部郡山越村(現八雲町山越)中村新三郎方に奉公する。天保6年(1835)に尻岸内村へ移住する。戸井村鎌歌漁業、佐々木辰五郎の長女まさと婚姻、屋号『〓』を名乗り、商業、漁業を営む。嘉永2年(1849)長男幸作(2代目松助)生れる。初代・2代松助は漁場経営、海漕店、商業・海産商・金融業等手広く営む、特に仕込み金融を行い財をなす。仕込み金融とは、当時の北海道漁業の主要な金融形式で、漁家に漁業資材や現金を貸与し、代償として生産物の買占め物資代金・元利を差引く方法である。この場合生産物は市場価格より安く買取り、物資貸付けの金利も取るため、仕込み金融の利潤は相当なものだったいわれている。また、赤井は、当時、始まったばかりの郵便局も経営している。3代目赤井幸一郎は村議(大正9~15年)を務めている。なお、赤井家の文書は数多く残っており北海道開拓記念館に寄贈・保存されている。
〓赤井 時貸帳(明治34年)
〓赤井 大福帳(明治24年)
〓赤井 鰮連判帳(明治40年)
〓赤井 臨時貸付台帳(明治40年)
〓赤井 送状留(明治32年)