亀田八幡宮記録に『明治五年の尻岸内村の人口・戸口』がある。この戸数(村の全戸数)と前記の「畑反別書上小前連印帳」に記載されている人数(地主戸数)とを比較して見る。
明治5年、尻岸内村の戸口「187戸/1060人」内、明治6年の畑反別書上小前連印帳の人数(94人・戸主)である。この戸口・人数から、全戸数の約半数(50%)以上の家が、明治6年には、それまで耕地としていた、いわゆる「隠し畑」が公式に私有地として認知されたということになる。また、この連印帳に名を連ねた人を部落別にみると日浦「17戸/97人」(内7人)、尻岸内「55戸/221人」(内21人)、古武井・根田内「115戸/742人」(内66人)となる。先にも述べたが、野菜類の自給自足であった当時、耕地をもたない40%以上の家ではどのようにして確保していたのであろうか。
隠し畑は、宝暦年間から耕作されていたといわれており、以前から耕作していた人は当然専有権を主張したであろう。後からの移住者の中には、これらの地権主張者から土地を借り受けて野菜等の栽培をした人もいたであろう。また、自家消費で余った分を売ったり、販売を目的に栽培する半専業農家も現れたとも考えられる。現存する文書には農産物の種類等、相当の数量であった事が記録されている。