発展した大正期 『尻岸内村沿革史 累年統計』より

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 大正7年編集「函館支庁管内町村誌(渡島教育会編)」の「尻岸内村」農業の項に、「農業は甚だ幼稚にして水田を見ることなく僅かに需要を満たすのみ、近来牧畜を興さんとするものあり。」と記述されている。漁業と比較した場合は、その通りと言えなくもないが、この累年統計を読む限りでは農業生産も種類・量とも相当の数値を示している。

表6 総人口・農家人口・漁家人口の推移


表7 農産物収穫調


表8 物資輸入表により主な農産物を抜粋

 
専業農家について  僅かではあるが農業を専業にする人達が現れた。大正7年の統計では35戸・115人、全戸数の4%、前年比から農家は増加する傾向にあるとみる。因みに、同年の漁家611戸・4,062人、全戸数の72%から見ると取るに足りない数値であるが、漁家のほとんどは農業を兼業していたはずである。
 
農業生産額について  大正7年の総生産額73,216円、明治44年の総生産額5,559円、7年間で実に13倍の伸びである。人口が微増(明治44年5,078人、大正7年5,116人)のなか、物価高を考慮に入れたとしても大変な数値である。漁業と比較して見る。漁業の同年の総生産額は292,203円であり、農業総生産額はこの25%に値する。この数値からも農業の飛躍が認められる。ただ、漁業の場合、年によって生産高に極端な差がある。比較した大正7年は4年間(4年~7年)のほぼ平均的生産額である、この前年、大正6年の総生産額は、 556,459円で、農業総生産額89,632円は16%余りである。この数字であっても、農業は相当の生産額を上げてきたと言えるのではないか。
 
栽培作物について  主食にも代わる馬鈴薯の生産がこの4年間の平均で1番多く、最も生産量の高かった大正5年で、村民1人当たりに換算し174キログラムの生産を上げたことになる。これは相当の量である。また、同じような性質の作物として、南瓜の生産額も第4位、1人当たりにして29キログラム、個数10以上になると思われる。ただ大正7年の馬鈴薯の生産量の激減については、気候によるものなのか漁業の繁忙が原因なのか定かではない。次に多いのが大根である。大正6年の生産量で村民1人当たりに換算し87キログラム、漬物、味噌汁の実・惣菜用として十分賄える量であり、明治以降順調に生産量・額ともに増やしている。また、同じような性質の作物、胡瓜(きゅうり)・キャベツ・蕪、あるいは日常のお惣菜となる人参、牛蒡、葱といった作物の生産量も目に付く。生産額3.6位の小豆・大豆、あるいは菜豆など豆類の生産も順調に延ばしてきている。豆類は食生活に欠くことの出来ない作物であり、また、大豆は豆腐、納豆、味噌等の原料としても使われたのであろう。
 この資料から、作付け面積、生産量・額ともに順調に増加し、また、作物の種類も多彩になり、食膳を賑わしたであろう。おし並(な)べて言えば、大正期は農業にとって飛躍的に発展した時期であるといえる。なお、このことを検証する意味で、『尻岸内村沿革史 累年統計、移入農産物の種類・量』との対比から、農産物の自給の実態を掌握してみる。
 
白米・糯米について  水田がなく米の100%移入は当然である。
 野菜について 馬鈴薯・南瓜も含めて、ほぼ100%自給していたと考えてよい。当時、西洋野菜であった玉葱は需要も少なかったろうし、栽培法もよく知られていなかったのではないか、蔬菜類の中にはそのような作物も含まれていたと思われる。
 
大豆・小豆について  主要作物である大豆の大正4~7年の4年間の移入量663石・生産量1,470石(合計消費量 2,133石)で自給率は70%に近い。同じく小豆は移入70石・生産1,551石で自給率95%を超え自給自足といっていいであろう。他の豆類についても充足していたと思われる。
 
大麦・麦類について  大麦は米に混入して食したのであろう。大麦の生産については記録がない。また、割愛したが、燕麦(えんばく)の移入も大麦とほぼ同じ量見受けられる。これは、当時200~300頭の馬を飼育していたので、その飼料だとも思われる。
 
果実について  林檎をはじめ、果実は100%移入である。明治15年の村政表の草木項には、梨、林檎、葡萄の木の記録があるが以降の栽培の記録がない。あったとしても自家用であり生産量もほんの僅かにすぎなかったと思われる。
 
 以上、この表から『輸入農産物』と『地元生産物』の対比・考察したが、ここでも大正期の農業は発展充実してきたといえる。そして、課題は稲作にあった。