[昭和・戦後の時代]

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 昭和に入り硫黄の市場は好況を呈し価格は急上昇してくる。硫黄を原料とする地元大手の、函館人造肥料会社の事業再開などの好材料も加わり、昭和2年恵山は再び操業を開始する。当時の鉱山の概況について昭和3年発行の『北海道鉱業誌』は次の様に記している。
 
恵山硫黄鉱山概況(椴法華村史より)
位置    渡島国亀田郡尻岸内村・椴法華
礦種及鑛(こう)区 硫黄・採掘登録 第三九號(ごう) 面積九五、九〇〇坪
礦産額   原礦(げんこう)一、一一三噸(トン)価格一〇、七九九圓
礦業代理人 歌川眞冊
地理    恵山岬の上にあり、函館より陸路一四里道中峻坂(しゅんはん)2ケ所横たはり陸路は交通甚(はなは)だ不便なるも、山元より一里の山麓根田内村より函館その他に汽船の便あり。
地質及礦床 舊(きゅう)噴火山の恵山山頂にして硫気孔より噴出せし含硫黄瓦斯(ガス)の昇華(しょうか)せしもの及岩石を黴爛(びらん)して岩石中に侵染散點(しんせんさんてん)せるものなり。
品位及用途 粗礦(そこう)平均品位五二%にして室蘭日本製鋼所及函館大日本人造肥料会社に販賣(はんばい)す。
採礦法   噴気中より硫黄を採集したことあるも現在は岩石中に侵染(しんせん)せる硫黄を露天掘りにて採取する。
排水法   自然排水
運搬法   山元より根田内の海岸迄約一里の間は馬車又は馬背により、同所より汽船により輸送す。
選礦法   簡単なる手選を行ふのみにて直ちに精煉に附す。

[表]

 なお、精煉の規模については、昭和12年の写真から精錬窯が3基(煙突の数が3本)で焼取釜が30個位あったものと推測される。
 昭和2年8月、操業を再開した常磐鉱業所より、同5年に鉱業権を再び入手した押野貞次郎は、以後、昭和17年頃まで操業を続けていたようである。札幌鉱山監督局鉱区一覧には昭和12年以降の生産高の記載はないが、同鉱区一覧の記録では16年に鉱区を107,270坪に拡大していてる。
 昭和19年には戦時企業整備令が出され、戦争に直接関係のないいわゆる平和産業に属する硫黄鉱山等は、鉱業権、施設設備、資材などすべて国に徴用され、従業員も戦時関連の鉄、銅などの鉱山に配置転換されたのである。