『恵山町ふるさと民話の会』編集・発行の古武井鉱山物語という本がある。
この本について、北海道新聞文学賞を受賞した函館在住の作家、吉田典子氏は北海道新聞の平成5年5月27日付『朝の食卓』に幻の町と題して次のような文をよせている。
いくつになっても、絵地図には好奇心をかきたてられる。血もさわぐ。幼少期、童話本の中で宝さがしの絵地図に心躍らせて以来の条件反射だ。それも函館近郊のものとなればことさらである。というのも、先日「古武井鉱山物語」という本をいただき、その扉に硫黄山概観の絵地図が掲載されていたからだった。
この本製作スタッフの一行が、ジープ型車でトロッコ軌道跡林道を進んで行く行程を、暗渠(あんきょ)商店街、料亭小滝楼、鉱山病院、神社、と絵地図の中にたどっていくうちに眼前に幻の町が浮上してきた。診療所の跡地から「大日本麦酒」の文字のついたビール瓶や暗緑色ナポレオンのボトルなどが出てくるくだりではさらに空想にリアリティーが付加する。
明治の終わりから大正にかけて東洋一を誇るこの硫黄鉱山には、家族を含めて三千人ほどの集落があったという。子どもがいるから分教場ができ、神社の祭りには東京相撲を呼ぶ。酒好きな男たちは樽(たる)酒を買い、女衆は高級品もそろえている呉服屋に集まる。
鉱山の夢に取りつかれた人々によってこつ然と出現した集落が、今では窯跡のがれきを残すばかりだ。だが絵地図の余白には、そこに生きた人々のドラマが封じ込められていて、物語の風景が姿を現してくる。
しかし、七重余年を経ても、古武井川にはいまでも鉱山の毒が流れこみ、魚影を見ることはないという。
(北海道新聞 朝の食卓 H5.5.27 全文)
古武井鉱山物語は題名どおり物語りであり、登場人物やストーリーの展開など創作ではあるが、硫黄鉱山操業の状況については確かな記録に基づいて描かれている。
古武井川の上流に大規模な硫黄鉱山が存在し、僅か30年に満たない期間であったが山間には3千人を越す鉱山(ヤマ)で働く人々の集落が生まれ、数々のドラマが繰り広げられたのは紛れもない事実である。中央資本による大規模な鉱業の先駆けとして、また、わが国の近代産業の発展に、外貨獲得に、大きな貢献をした古武井硫黄鉱山。函館市史、統計資料編函館港普通貿易、品目別輸出の項(明治2年~)を見れば、当然ながら昆布の数値が群をぬく。が、20年代から硫黄が目に付きはじめ、40年代には、昆布を抜き輸出のトップに躍り出、その座は大正まで続いている。そして、この数値は古武井硫黄鉱山の盛衰とも一致している。また、この鉱山(ヤマ)の興隆は、函館の近代機械・金属工業の発展を促した。
一時は輸出量で全国一を誇った古武井硫黄鉱山も、吉田典子氏の文にもあるように「鉱山跡は僅かに瓦礫をのこすばかり」となっている。そして、地元の人々の記憶からさえ消えつつある。全国の硫黄鉱山は使命が終えると同時に消え去って行き、鉱山の存在はおろか『硫黄』そのものに対する認識さえおぼつかないのが現実である現在(いま)、これを記録に残す事は、鉱業の発達史、鉱物資源の開発と自然との関わり、硫黄鉱山の操業と町の発展などを知るうえで意義あることだと考える。加えて、恵山町の地下資源を、今後どう生かすべきかの命題に触れる事ができればなおさらの事である。