労務者数と鉱山(やま)の人口

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 古武井硫黄鉱山は、1200人を数える労働者、3千人を超す集落ともいわれてきたが、人の出入りが激しく、しかも僅か20年程の期間である。鉱山(やま)の人口を正確に把握することは難しい。ただ、明治39年から44年までの山懸・押野両鉱山の労務者数の資料があり、これは比較的正確な数であると考えられるので、これらをもとに、古武井硫黄鉱山の人口を推測してみる。
 この資料によると労務者の数は、明治36年以降、増減を繰り返しピーク時には千名を超えている。が、これは、あくまでも三井鉱山が掌握している(山懸・押野含めて)正規の労務者であり、いわゆる出面(でめん)などを加えると、これを、相当数上回るものと推測される。特に女性労務者の人数、資料ではピーク時で130人台であるが、古武井山林管理人であった田村貞八氏からの聞き取り(三井鉱山資料)によれば、最盛期には300人余りもいたという。詳細は後述するが、明治37年に鉱山の子弟のために設立された古武井小学校の中小屋・元山分校の児童数を合わせると、設立以来100名を超え明治44年には208名を数えている。因みに本校の児童数は216名であった。この事からも、鉱山労務者の相当数は家族ぐるみで鉱山(やま)に住み、働いていたと推測される。したがって、古武井鉱山の労務者数は家族を含めると、操業以来千人を超え、最盛期には千5、600人を数えたと言っていいのではないか。
 鉱山労務者と家族・相当数の事務方、500余人を数えていたという。鉱山を相手に商売を営む人(通称暗渠商店街の人達)、鉱山と関わった仕事に従事する人、樵夫、炭焼き、牛飼い(鉱山に牛乳を納めていた)、旅籠等。また、逗留する行商人、旅芸人なども含めた人数を考えれば、明治末期から大正の初めまでの古武井鉱山最盛期には、3千人を数える集落であったというのはあながち誇張とは思えない。
 
<当時の尻岸内村の人口>
 この尻岸内村人口表を見て、古武井硫黄鉱山の労務者数がいかに大きな数であったかが頷ける。また、この人口表の入寄留数の推移に注目したい。鉱山操業以来年を追うごとに寄留者は増加している。これらの寄留者のうち北陸方面から川崎船でやってきた漁業従事者等、漁業出稼ぎ者も相当いたろうが、鉱山労務者の占める割合が大きかった事は間違いない。明治41年の 3,019人の突出した数は、馬車鉄道敷設のための労務者が加わった人数と考えられる。総延長約9キロメートル、加えて険しい川岸を掘削して線路を敷設するという、当時としては難工事である。相当数の技術者と多くの労働力を必要としたろう。この統計では村の人口が1年間で2千200人増えたことになり、それは、全住民の4割強にも当たる。なお、明治36年、それまで武井(現在の字豊浦)にあった戸長役場が古武井に移転している。これは古武井・中小屋・元山の人口が増えてきた(鉱山と学校の項参照)ことや、下記の村費賦課税額でも分かるように、古武井硫黄鉱山が、村の行政、とりわけ経済に大きな影響力を持つようになった表れと推測される。

山縣鉱山・押野鉱山(朝田鉱山)労務者数 明治39~44年 (三井鉱山調べ)


当時の尻岸内村の人口


明治38年度 村費賦課税額