[三井古武井紀行記 函館商船学校 町田久敬(峯水)]

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函館毎日新聞連載7回全文
明治45年(1912)4月13日~21日
 
(1) 春来れば四方の風景一変し、春風駘蕩(たいとう)として得も言われぬ自然の霊妙に打たれる、此(この)ところ處よろしく塵埃(じんあい)の巷(ちまた)を去り、浩然の気を養うは最も策の得た所の人であると思う。野外運動を試みただけでも確かに精神爽快ならしむるに相異あるまい。空気は格段に清鮮だ。肺の弱き人と心臓に症(や)む人も速やかに壮健になる。脂肪過多の人は脂肪が減じ、痩身骨に似た人も、筋力を増加し勢力を発達せしめ、血液の循環も活発となり、腸の蠕動(ぜんどう)も旺盛となる。なお、異なる山川を拔渉し、自然の美観に接する時は心気を一転し、不撓不屈(ふとうふくつ)の根気源泉の如く、胸より溢れ出る虚弱なる薄志弱行散漫空漠(はくしじゃくこうさんまんくうばく)たる病的思想は直ちに一掃され、ために心身の動揺禁ずる能(あた)はしめざるに至るのである。或いはまた、人世を達観した所の、王陽明が詩に、『此の身浩蕩(こうとう)とし虚舟に浮かべば豈(あに)束縛を顧みて窮囚(きょうしゅう)の如くならんや 或いは人世達命すれば自ら洒落たり讒(ざん)を憂い毀(そし)りを避けて徒らに啾(しゅう)々たらん哉』の感慨はこれ皆塵埃極(じんあいきわ)まる世務(せむ)を暫(しばら)く脱しての感想である。
 学年末の休暇が来た。余に取りては獨(ひと)りそれが無上の愉快に絶(た)まらない。また、心身を憤励ならしむるも実にこの期間である。この休暇を利用して見学を博(ひろ)くし、常識を発達ならしめ心身の精気を復活せしむるは、年来、余の抱負であるのである。元より函館の昨今は、紅雲靉靆(うんあいたい)(雲の盛んな様子)として彩霞揺曵(さいかえいこう)し(霞みたなびく)花慢(はなおごる)(花咲き乱れ)、地を掩(おお)うと言うような段ではなく、時には寒風凛烈(かんぷうりんれつ)、先達(せんだっ)てなどは飛雪紛々として、未だ咲きもせない梅の樹を泣かしたような具合であるから、余が希望の野外運動も少し早きがごとき感もするのである。
 殊に北海内地を踏み破り、千山万岳(せんざんばんがく)の霊感に接するはこれを少しく得るに困難かもしれない。左(さ)りながら貴重の休暇を空しく室内籠城(ろうじょう)するには余が抱負を抑制する未だ十分ではない。古語に曰く、虎穴に入らずんば虎を得ること能(あた)はず。男子すべからく剣難(けんなん)を冒(おか)すべくんば誰が真如(しんよゃ)の球を磨くを得らん哉。憤励(ふんれい)一番勇を鼓(こ)して、日本第一の古武井の硫黄鉱山を見学せんものと、目的地を選定したのである。元より余は地質学者ではない。苦痛を味わい跋渉(ばっしょう)して来た余が、見学土産は決して一変の座談ではない。もし幾分(いくぶん)なりとも参考とならば頗(すこぶ)る光栄とするところである。
 
鉱山発見の沿革
 古武井の三井鉱山は明治四四年一二月前まで押野彊の所有であったので、押野鉱山と冴え言えば誰れ知らぬ人なき有数の位に属しておる硫黄鉱山である。該山(がいざん)の事務所は海抜九百有余尺の所にあるから、春だからとて必ず寒いに決まっている。
 すべて鉱山の発見者は不思議なる奇縁の歴史を持っているものである。例えば明治九年、開拓使雇、米人ライマン氏が北海道地質を測定する時、登川の下流に石炭の塊が岸辺に横たわっているのを発見し、必ずこの上流に炭山があることを予言した。余はいわゆるライマン氏が予言した夕張炭山を視察したのであるが、地勢なかなか峻嶮(しゅんけん)にして汽車の便によるにあらずんば、陸行する等(など)とは思いもよらぬ。然(しか)るに明治二一年、北海道技師坂本太郎氏が辛苦艱難(しんくかんなん)を経て踏査の結果炭山を発見したのが、予言後殆(ほとん)ど二〇か年の後なのである。鉱山の発見はこのようなもので、その発見の困難なるに加えて、一方には千山万水(せんざんばんすい)の風光を供えている。地勢峻嶮(ちせいしゅんけん)人馬の跋渉(ばっしょう)する能(あた)わざる所多ければ、必ずそれに伴う発見者には何等か珍奇の話があるものである。
 例えば、樵夫等(きこりら)が偶然に発見したと言う話もあるが、この古武井の三井鉱山を発見した話はなかなか聞くに価値があると思う。
 その発見者は古武井村の人で山野千松と言う船大工で、元治元年(1864)にこれを報告した。ある日のこと、船大工は自分の商売に必要なる舵(かじ)の原料を求めんとて、該山(がいざん)に出掛けた。諸氏ご承知の通り該山は海抜千有余尺の幾多の連山高峯をもって形成されたる山々で、彼の丸山或いは古武井岳と言えば恵山の沖合より眺望される駒岳より高い高山である。今でこそ該山(がいざん)用燃料等のため、古武井の山間に生えている森林は悉(ことごと)く抜木されて坊主になっているが、むかしむかしは確かに森林鬱蒼(うっそう)と繁茂しておったに相違ない。抜木の周囲を見ても分る。船大工余りの寒さに耐え兼ねて岩上で燃やす。硫黄の毒煙紛々として発煙し到底身体を温むる余地を有せざらしめ、直ちに帰村しこれを村民に報告した所で、同村で有名なる善兵衛と言う人が総代となり、これを函館の資産家石川小十郎と言う人に謀り同氏の投資により開坑に着手しつ。爾後幾多(じごいくた)の人の手に帰し、これを押野の有に帰したのが明治三五年四月、また、三井の手に帰したのが明治四四年一二月、余程(よほど)時期が失していると言う話だけれども、未だ前途有望と余は思うのである。
 それでこの船大工は、油絵想像画として三井鉱山事務所内に掲げられてあるが、頭の禿げた大和船の船頭らしき顔つきをしている。これは何よりの見ておくべき記念物であると思う。
 それで、該山(がいざん)の寿命有る限り発見者山野の遺族には、毎月米2俵と幾何(いくばく)かの金円を給与している。而してその子息は唯今該山(がいざん)で使役しているが実に結構な至りである。
 
(2)函館~古武井間海上の夜光
 余はこの紀行文中に少しばかり道案内を記入しておきたいと思う。なぜかとなれば今年の暑中休暇には、函館の健脚家諸君が宜しく該山(がいざん)を跋渉(ばっしょう)されんことを希望するからである。
 函館から陸行すれば一四里と言うのであるが、山間頗(すこぶ)る峻嶮(しゅんけん)なるが故に陸行すると余程(よほど)難渋すると聞く、されど海上を取ると最も便利で、まず、押野所有船、礦運丸(こううんまる)(一二〇トン)及び他の船主に属する第一丸(六〇トン)の二隻が連夜出帆することになっておる。片道函館港から古武井村の浜まで七〇銭である。前者(礦運丸(こううんまる))で行くと四時間足らずで、後者は五時間を要する。礦運丸(こううんまる)の乗組み切符販売所は弁天町の押野出張所及び東浜町の曲保印(かねほじるし)の運送店三井である。そこで余は押野出張所に至り礦運丸(こううんまる)の乗組み切符を求め曲保(かねほ)三井運送店に行き古武井の三井硫黄鉱山視察を述べると、恰(あたか)も幸い岩内より三井の事務員が来られ古武井鉱山に出張されると言う事で、余は今回この人と同行する栄を得た訳であった。三井事務員が来た為に、午前三時の出帆が一時間早く繰上げとなった。
 時は明治四五年四月三日午前二時、碇(いかり)を巻く音がするかと思うとき機関室で機械が動き出した。恰も月は臥牛山の上に高く照り輝き風波起こらず、船首を切って左右に散る水波は銀色の如く、思わず余は赤壁(せきへき)の賦(ふ)を唄う。曰く、少焉(しょうえん)にし月東山の上に出(い)で斗牛(とぎゅう)の間に徘徊(はいかい)す、白露江に横たわり水光天に接わるは、一葦(い)の如く縦(ほしいまま)にし万頃の呆然たるを凌(しの)ぐ、浩々乎(こくこくこ)として巨(きょ)に馮(よ)り風に御し、その止まる所を知らざるが如しと、更に声高らかに王陽明の啾々(しゅうしゅう)の詩を吟ず。
 
親切なる三井事務員
 臥牛山を巡り、遥かに点々たる人家の灯火明滅するを告げた時分は、午前三時、俄かに天候一変し風波加わり船さえ動揺し、寒風凛烈到底起居(かんぷうりんれつとうていききょ)するに忍びざらしめた。上等室備え付けの寝台に乗ると、該船は客船でないから寝具がない。そのまま横臥(おうが)し寒さを堪(た)えて夜明け方になると古武井が見えた。艀舟(はしけ)が来たと言う声を聞く。早く出発準備をして同伴いたしましょうと催促したのが三井の事務員、その時余はすっかり風邪を引いてしまった。頭蓋骨はまさに破裂しそうだ。余は到底(とうてい)起きる事が出来ないと事務員にその旨を告げた。そうしたら是非同伴せなければ時機を失する、私と一緒なれば至極好便(しごくこうべん)なり、風に当たれば必ず癒(なお)ると、先生余が船に酔った積もりに思っているらしい。酔ったと思われては残念なりと勇を鼓し出発準備を整え甲板に出(い)で時計を見ると午前六時、風は東方に変じ波高く、暗雲空を覆(おお)い東の空に赤く太陽が出たのが雲間より映じた。確かに詩的であった。エイヤエイヤと言う勇ましき船頭の櫓漕(ろこ)ぐ声に珍奇の感想に頭痛の痛みを忘れしめ、岸辺に着くと三井事務員御ざんなれと優待この上なし。かくして余を無事鉱山に案内してくれた人とはそも如何なる人ぞ、三井に二十有余年も奉職している事務員で姓名を大平丹治(事務員心得・主事代理)と言う。旅は道ずれ世は情けという諺があるが、余は深くこの人に感謝するのである。
 余は、三井事務員の言に従ったのは何より幸いであったのである。
 自分が函館を出帆する前夜予め天候を知悉(ちしつ)しておく必要があるから函館の測候所に天候を問い合わせてみると、大変今晩は無事ならんも明朝より二、三日は天候険悪なり、古武井に旅行なさるなら今直ぐなさらんといけませんと、この人も知らぬ者に真相を教えてくれた。余は深く測候所の厚意に感謝するのである。然(しか)るに余もし古武井に留まるその事務員と同伴せなかったら大変、午後は非常なる暴吹雪で到底山に行く事が出来ず、また函館古武井間の船も四、五日の間往復せなかったのである。
 
(3)山間の奇景
 礦運丸の晴雨計は気圧の変動を告げたらしい。船長は荷揚げがすむと早々函館に向けて出帆したそうである。
 余等は「トラック」と名づくる吹き流しの台車にのせられ一頭の馬で、峻嶮この上なき山間の麓を引張られた。春まだ寒き古武井の空は、秋の終わりを告げたかの如く山辺に生える竹の枯れ葉にはサワサワと吹く山風に、頗(すこぶ)る心身に冷感を覚え頭痛の痛み去る術もない。所々の山々の路傍にはなお白雪累々として積もり、吹く山風はまだ嵐にあらねど山間の風光は頗る奇景を呈し、函館近在にかかる風景のある所があるとは思わなかったのである。
 山間を流れている古武井川は巌(いわお)に砕けて凄(すさ)まじく混々として屈曲して神龍の大地に横たわるようである。迸(ほとばし)る流水は白玉の如くなれどその質は著(いちじる)しく泥水に似て居る。葢(けだ)し硫黄鉱を洗浄するからである。川は古武井の浜に注がれている。昔はこの川上に鱒だの鮭だのその他魚族共が盛んに昇ったそうだ。今は鉱毒のためそんなことがあろう筈がない。
 「トラック」の進行が段々遅くなってきた。その時余等は懸崖絶壁幾十丈(けんがいぜっぺきいくじゅうじょう)というを知らぬ山間を走っておったのである。間もなく眼前に丸山及び古武井岳が白雪こうこうとして天空に聳えている。もしこれが風さえなく気分さえよかったら、この風光はこの上なしである。去れど今年夏には名誉回復のためまた来ねばなるまいと思った。「トラック」に乗っていること殆ど二時間無事三井古武井鉱山事務所に到着した。
 
硫黄の臭気及び合宿所の籠城一日
 函館で礦運丸乗組切符(きっぷ)を求めんとして押野出張所に往った時著(いちじる)しく硫黄の香りがした。また曲保の三井運送店でも同じ香りをかまされた。今度は礦運丸に乗組むと炭火の中に著しく硫黄があると見え、臭気紛々として炭火中より発煙するので余は少なからず頭痛を誘発したのであろう。次に古武井に着き「トラック」で往く往く所々の硫黄の製錬所を通過するとき硫黄の臭気が紛々とする。今度は自分の洋服までまた三井の人まで何から何まで硫黄の臭気がするのを覚えた。
 さて、余が古武井鉱山事務所に到着したその日午後より、風伯一段と加わり暗雲全く古武井の山々を覆(おお)い、白雪絶えず縦横左右より山間を吹き回し見る間に数尺の積雪に、夕刻になると鉱石運搬の道絶え、かくして人馬の往来悉く絶えたのである。その頃余は三井鉱山合宿所の宿内に横臥(おうが)し頭部に氷嚢(ひょうのう)を載(の)せたる大病人だ。夜間はいよいよ風伯(ふうはく)を強めたようである。されど余は夢(ゆめ)ん中(なか)だ。
 翌朝になったら降雪はなかったが吹き回す山風は猛烈だ。聞く、明治四〇年三月八日、該開坑以来の大暴吹雪で積雪縦(ほしい)ままに各宿舎を没するまでに達した。鉱山の合宿署員は夜明けになっても夜が明けない、時計を出してみると既に午前九時半だ。間もなく悲鳴の声が聞こえる。それを救助せんとて外に出づれど雪深く道を踏み開く由もない。全力を尽くして救助したけれどなお一両日の吹雪に三〇有余名を埋没したそうで、今度もそのような吹雪きになるならんと深く鉱山の人が心配したそうであるが、幸いかかる大事に至らざりしは天祐といわなければならない。
 その日余の風邪のみは去ったようである。起きて岡田式の静座腹式呼吸を終日励行し、精神的療法を励行したら夕刻になり夢の覚めた様に癒(なお)った様である。然(しか)し気分は勝れない。明日(五日)は午前中岡田式を励行し午後より鉱山を見学せんと頗(すこぶ)る心が焦ってくる。
 
(4)硫黄鉱坑道
 四月五日の午後、予て準備の草鞋(わらじ)と脚袋(きゃはん)を穿(うが)ち、坑内事務所に出かけ坑道案内者よりの注意により「シャツ」及び「ズボン下」を一枚となり、技業服に着替え銅製の「カンテラ」一個及び鳥打帽子を貸して貰って坑道に向かう。「カンテラ」の灯油は白絞(しらしめ)であった。
 該山は、硫黄坑道ゆえ炭山の如く「マーンユ」瓦斯(ガス)の爆発の憂いは決してない。また、坑内で変死した人がまだ一人もない。安心して後から付いてお出でなさい。との案内者の言葉に、その人を信認しながら頗(すこ)ぶる気持ち悪く覚えつつ案内者の後に追従す。
 余は、坑内往(い)く往(い)く案内者より該山の地質鉱床の状態を話された。余の記憶する所は次の如くである。
 地質の下盤は凝灰岩にしてその性質は、灰及び土・礫から構成され、上盤は粘土が五尺乃至一〇尺を被い、その上部は安山岩の分解せし灰色粘土に硫化鉱を含有せしもの三尺乃至七尺を被い、それより地上まで安山岩粉砕の礫及び火山灰より構成せる礫岩にして、地上所々に大塊を成せる安山岩の散在を見る。これらの如く地層泥板を形成せる鉱山なるが故に、採掘作業は最も容易ならんと。したがって一方にある困難を感ぜざるを得ざるものあり。
 坑内一〇間(けん)余りも歩かせらるや、余が五尺有余の小駆(しょうく)でさえ著(いちじる)しく屈曲せざれば、頭部を殴打(おうだ)せらるるので幾回となく注意されながら、頭部を殴打(おうだ)されたのである。されど坑道は狭く低く作るかと言えば決してそうではない。やはり他の鉱山と同じように一定の規定によるのである。何分にも地質泥状成るが故に坑内鳥居(とりい)形の留め枠は自然に二、三か月も経過すると一二尺もの山の重量で廊下埋没するのである。もしそのまま修理を加えざればことごとく坑道は埋没するそうで、毎日坑道に修理を加える支柱夫(しちゅうふ)及び工作夫(こうさくふ)の仕事は夛勢なるときく。坑内枠留用材は松及び雑木を用いておる。
 
採鉱方法
 鉱層は鉱区西南境、釧勝株式会社採掘地域より東北に向かって層状形に、一九度乃至二〇度の傾斜をもって走向せる沈殿質の硫黄にして、北方に進むに従って暫次層状を呈している。昔は鉱層四〇尺の所もあったそうで、所々に腐れ他木材が鉱壁にあるのを認めたが、以前はそこも坑道で、手入れを施さぬと皆その通りに埋没さるる。人心も勉強せねばそのように土塊の中に埋没さるるのである。
 この坑道の水平坑道には「トラック」用の「レール」を施設しているが屈進傾斜の箇所は運搬夫により鉱石を運搬して居る。而して三〇尺毎に昇り坑道を作り、各昇り坑道相互の間は目貫(めぬき)をもって連絡して居る。採掘方法は残柱法にして昇り坑道目貫(めぬき)出における鉱物はこれを四分しつつ上方に進み、一旦上部の水平坑道に達したる時は、その両水平坑道に接しせる。鉱柱の外、全部柱引をなすのである。
 夕張炭山の第一鉱は、三〇度の層状なるが故、歩行には頗る困難なれど硫黄鉱とは性質を異にするが故、鉱石運搬には鉄索(てっさく)と人馬及び空気圧縮汽関車を使用して居るので鉱石運搬は実に易々(いい)たるものである。されど該山は水平坑道にのみ「トラック」を使用し、またある一部に鉄索(てっさく)を使用するのみで、他はすべて運搬夫(うんぱんふ)と称する坑夫が裸体で背中に荷(な)える箱中に鉱石を容(い)れ、汗を流しながら運搬して居る。狭き坑道を辿って歩くのは頗る困難な様だ。それを「トラック」に積み入れ坑外に搬出すると、坑外では人力あるいは馬力で運搬する。「レール」は坑内九听(ポンド)、坑外は一二听(ポンド)のものを敷設して居る。
 坑道留め木及び燃料用木材運搬のために、青盤(あおばん)と言う所で、玉村式単線高架策道を使用して居る。該用の汽機は一五馬力を発生して居る。坑内用の「トラック」は一二〇貫乃至一六〇貫のものである。鉱夫の種類は、坑夫、支柱夫、手子、選鉱夫、製錬夫、運搬夫、工作夫機械夫及び雑夫で、合計千有余名もあると聞く。坑内で作業するものは坑夫、支柱夫、手子及び運搬夫の四種類である。
 
(5)通気法・排水法及び露天掘
 該山(がいざん)は自然通気法式である。故に余は次のような感想を懐したのである。坑内は至(いた)るところ亜硫酸瓦斯(ガス)の臭気がするのであるが、始め坑内は一〇間も歩くと段々暖気を加え、華氏七、八〇度に温度を高め、坑夫は裸体で働いていても熱い。且つ、灯火は露出の「カンテラ」なるが故に発煙甚(はなはだ)しい。また、材木の腐れた臭気も大分混入して居る。而して昨夜坑道を少しく圧下されたと言うところを歩かされたが、該坑道は殆ど通気を害(がい)されて居ったため温度は八〇度以上に昇り、携帯の灯火明滅し俄に熱くなってきて思わず汗を流した。余は予め懐中電灯を携帯して居ったため歩行には差支えなかった。坑内は通気が生命である。もしその道が絶えたら死ぬものと断念せねばならぬ、頗る心細い次第である。されば通気は最も貴重なるものである故、採掘せない坑道は風を送らぬように扉を施設してある。
 概して、該山(がいざん)の坑道の風は恰(あたか)も炎熱の如き日、清風徐(おもむ)ろに胸懐を払うと言うような感想がした。亜硫酸瓦斯(ガス)の臭気はちょうど果物のような香りで何ともない。
 該山(がいざん)の欠点は原動力を得るに困難なるに帰す。水利の便、運搬の便共に不足である。もし該山(がいざん)にある適当の原動力が得られれば機械的通気を採用するに至らば、幾多、人類のために幸福であるか言わずもがなである。
 坑内の排水は自然排水にて、所々水溜めを設け人力で坑外に運搬している。
 該山(がいざん)では露天掘りと名づくる採掘方法を実施して居る。すでに百有余尺を採掘して著しくその効果を奏して居るそうだ。その露天掘りに使用している「トラック」は、二四〇貫容積のものを二人で運搬している。この方法で採鉱すれば安全で作業困難ならず。幾多人類の幸福である。されどこの方法はある一部に限られる。
 
選鉱方法
 該山(がいざん)選鉱場が三か所もある。鉱石より硫黄鉱を選撰(せんせん)するので普通多くの女夫を使役して居る。而して、その方法に三種類ある。第一は分篩(ぶんじ)、第二は手撰、第三は水撰(すいせん)である。
 その第一なるは、坑内より運搬の鉱物を傾斜四五度の六分角鉄にて八分間隔の斜面格子(こうし)に掛け、粉鉱は第三なる水撰(すいせん)方法にて篩下に設備してある幅一尺五寸、深さ一尺の樋の流水を持って自然に流下し、粘土を洗浄し距離一四間にして、四分目金網を張りたる格子(こうし)に掛け、篩(こし)を懸けたのが第一番粉鉱として、四分目金網を透りし粉鉱は、尚、七間ほど流下し一分目金網に掛く、これを第二番粉鉱となし居る。以下粉末は含有成分不足のために精錬なすも収支償わざるには一定の箇所に放棄さるる。
 第二の方法は採掘鉱石を手撰(しゅせん)を以て鉱滓(こうさい)を去り、視力鑑定して五種の塊鉱に区別、直接トラックに積み入れ製錬所に運搬している。
 
(6)製錬方法
 該山(がいざん)硫黄製錬方法は焼取式にして、焼取釜(窯)五四基を設備して居る。一基は釜一二個で鋳鉄製の皿型になっている釜である。その径は三尺五寸、厚さ一吋(インチ)、重量九〇貫内外で一個の値は二五円六五銭もする。
 その釜の中に硫黄鉱を投入し上部を密閉し高度の加熱により、硫黄分を分離せしむ。而して、その気体となるや、鉄管(径三尺、長さ七〇尺余り)の沈殿器に導き自然液体と化し足る後、外部の溜釜に放流し適度を見計らい、これを円形缶に汲み入れ凝結せしむるのである。この硫黄の一本は重量二三貫である。焼取釜(窯)には一昼夜一基ごとに、原鉱九六〇貫目(釜一枚八〇貫目宛て)すなわち一回入れ替えをなすそうである。
 該山には二か所の製錬所がある。すなわち、旧山という所に、窯一四基、青盤という所に窯四〇基、合計五四基を設置し、入れ替えまた修繕等のため三基ずつ休釜あるを以て実際使用基数は五一基、それに原鉱使用量は、五八、九六〇貫目で、毎月一、〇〇〇トンの硫黄が精錬さるるそうである。
 明治四二年の調査によると、該山より産出する一か年の成績が三一九、六五二円(製品販売高)硫黄鉱石販売高が一六、五九八円である。近年もほぼ等額であるそうである。
 世界で最も多く硫黄を産出する国はイタリア(シチリア島)で、おおよそ九五〇の硫黄鉱山があるので、全世界の硫黄は主としてこの国より供給せらるるそうである。而してわが国は第二位に属して、そのまた第一位に属するのが古武井の硫黄鉱山である。該山の硫黄含有率は最上九五%のものもあるけれども、普通五、六〇%でその色まず灰色といったほうが適当ならんと思う。元よりその色には数種あるのである。
 硫黄の性質は(華氏)四二〇度にて沸騰し二硫化炭素に溶解する。その用途は「マッチ・火薬・花火・エボナイト」製造に用らる。また、「ゴム」に加えて堅さと弾力を増さしむるに用いらるといえども、その主要の用途は「硫酸」の製造にあり。
 該山は元より火山脈であるがその硫黄鉱のでき方は、火山作用により沈殿してできたものである。
 
 副産物、第二硫化酸化鉄
 一名、硫化鉄は該山の鉱石中にある幾何(いくばく)かの量を含有して居るので、精錬釜に鉱石をいれ下部より加熱すると、鉱石中含有の硫化鉄が下部に沈殿しそれが皮殻(スケシル)となり固着する。その質、鉄の一種なるが故に伝熱を防ぐ事著しく、新釜使用後八か月を経過すると二インチ近くとなりそれに釜の厚さを加えると、三インチ近くになるから火熱の損失莫大なものである。そうして、八か月乃至一〇か月経過後ごとに釜の底は硫酸の浸蝕により裂疵(れっし)を生じ、自らその用途を失うに至る。元より一〇か月以上に達するものもあるそうである。
 該山に往くその沿路に数百千の破壊せる釜の横たわるは、誰も気付かぬ人はなかろうと思う。ドイツ国では副産物硫化鉄を再び精錬して硫酸と硫黄を精製するそうである。硫化鉄一トンの価格は二五円と聞く、製錬用燃料には幾多の試験を遣(や)って見たが木材が最上であるそうだ。即ち強からず弱からずまた、ながき火焔(かえん)を発するからである。
 古武井近在の山が伐木され坊主になって居るのを見ても分かる。
 
(7)坑夫生活状態
 鉱山の生命は坑夫にして坑夫は鉱山の他からで金銀より重い。
 現時、欧州各地にては坑夫の「ストライキ」とか、種々の雑多困難な問題が横たわって居る。今、日本の鉱山の坑夫はいかなる状態にあるか、すでに幾多の人々により詳細に研究されたと思う。されどもそれを知っている人は少ない。日本もいつ同じ現象が爆発するとも限らぬと観(み)て取った。函館の町田峯水、物好きに二、三の坑夫と語り且つ坑夫の家庭を訪問し、いかなる生活状態にあるか、いささか研究してみたのである。
 坑夫と言えばなんとなく恐ろしい感想が浮かばる。なぜとなれば坑内の作業は頗る危険であるから、いつ何時鉱山が爆発、圧(つぶ)されぬとも限らぬ。世の人は称して彼等は命知らずであると思うは当然な次第である。昔の者は罪人の隠れ家として鉱山に出かけたそうで、その面相険悪にして、その思想頗(すこぶ)る危険とのみ思われて居ったのであるが、そもそもこれは大(だい)なる誤解であるのである。坑夫中には罪人は居らぬ。鉱山は決して罪人の隠れ家ではない。鉱山は前科者を採用せない。
 坑夫の作業は困難であるけれど思ったより危険ではない。安全で愉快なものであると広言している。彼等は至極(しごく)柔順にして、殊(こと)に古武井鉱山におる坑夫は能く係り主に服従し頗る勤勉なりとの評である。彼等の多くは家に妻子を有している。一日の作業は困難なるも、その労苦は我が家に帰ると門辺で妻子が楽しく迎えてくれる。彼等の欲っするところのものは単純にして晩酌の一盃は終日の労苦を忘れしめ、綿の如く疲労した身体は酒の勢(せい)で、翌朝、目醒(ざ)める時まで至極(しごく)太平である。
 坑夫は能く働きさえすれば収入が多く、月に四、五〇円も取るのは珍しくない。彼等の世界は都市、村と別世界で、黒暗々裡(こくあんあんり)に在(あ)って終日立ち働くのだから、美服を纏(まと)う野心更になく、花見遊山(はなみゆざん)する考えもなく、全然地上とは没交渉で花笑い鳥歌うとも彼等には何等関係ないのである。劇場だとか寄席(よせ)だとか、活動写真をする鉱山町は数あるものではない。かかる娯楽機関のある鉱山に住むものは、還(かえ)って月の仕出し多くなり、自ら労働の負担をおもくせなければならぬ様になる。
 彼等とて同じ人間である。故に愉快に仕事ができる日と不愉快に堪(た)えられない日がある。天気晴朗春風駘蕩(てんきせいろうしゅんぷうたいとう)たる日、彼等には何等関係なさそうだが、それが大いに関係し仕事が捗(はかど)らぬそうである。効果の顕(あらわ)れぬ時は採鉱係に及ぼす故、自分の責任上一生懸命に督励(とくれい)するのは一通りならざる心配だそうだ。彼等の労働時間は平均一〇時間であるが、成績の上がらぬ時はそれ以上働くことになって居る。元より昔の者は一二時間も坑内に入りっきりで坑門に番人が居て坑外に出さなかったそうである。現今はどこでも請負でやっているから圧制的方法はない。
 彼等の多くは飲酒をなすので、また、飲酒せなければ夜間熟睡できないそうで、夢見も悪いとのことである。されども家族係累の多いため、又は何等希望もなき可憐の坑夫は、地下幾千呎の下で唯一つの灯火に、この世からの地獄で、誠に見るも気の毒そうに顔色憔悴(がんしょくしょうすい)し精気なく遂(つい)には自暴自棄(じぼうじき)の最も恐るべきは誘惑である。
 鉱山には年中一つ所に生活する者のみではない。入れ代わり出で代わり幾多(いくた)の浮浪者が多いから、したがって種々なる坑夫が混入し、時には性質甚(はなは)だ善(よ)からぬ者が来て、鉱山の風紀を害し淫猥(いんわい)言語に絶えいる悪風習を持ち込んで来るから、その裏面は到底(とうてい)想像する事ができない。
 彼等は頗(すこぶ)る因忌(いんぎ)を嫌う。坑道に出掛ける前「穴」と言う言葉が彼等の耳に聞こえると、その言った人を甚(はなは)だしく殴打(おうだ)するそうだ。かかる因忌(いんぎ)に関する話は未だ沢山ある。彼等の因忌(いんぎ)を云々する所以(ゆえん)は必竟前途甚(ひっきょうぜんとはなは)だ心細いからである。故に自分の祝福を祈願する信頼の念強く、坑道に出掛ける前、我が家で神仏に対し誠意込めたる祈祷をなし本日の無事安全を祈るのである。誠に結構なことであると思う。余が見てきたのは天理教信徒の坑夫であるが、三〇分以上も朝の早くから神前で踊って居った。天理教信者中、かかる熱心な信者が坑夫として鉱山におることは羨望な次第である。彼等には物質における快楽はない。故にいかなる宗教にせよ自分の職業を天職として専心勉励(せんしんべんれい)し、かくして一方においては安心立命を得、精神的慰籍(いしゃく)を得、身は同じ人夫でありながら、彼の美衣美食(びいびしょく)に厭(あ)き足って、常に不安の念に駆(か)られる者に比べていかに幸福であるか、無上の光栄であるのであると思う。
 
古武井の海浜
 三井古武井鉱山に滞在すること、ここに五日間、一両日の内に船が来なければ自分の学校の始業式に間に合わぬから、それが心配でならなかった。幸いにもその朝、鑛運丸が入港しその夕方出帆するとの情報に接したので、蒼昊(そうこう)(青空)出発の準備を整え、鉱山事務員に厚く厚意を謝し別れを告げ、有名なる「トラック」に乗りゴトゴトと引っ張り出されたのが恰(あたか)も午前一一時、この日天気晴朗(せいろう)いくら寒くても春なれば古武井の山にも春来し心地する。馬子(まご)が一鞭加うれば更に馬力を加えて走り出す。左の方見るも、いぶせき坑夫の屋舎の辺りを通過し、後(しり)えに鉱山事務所を見送った。
 住めば都なれれば田舎と言う諺があるが、かかる寒村の山中に能(よ)くも皆が生活してその日を送られるものよ、と考えるもあらずまたも我が身は懸崖絶壁幾十丈(けんがいぜっぺきいくじゅうじょう)、見下せば千仭(せんじん)の渓谷滾々(こんこん)たる奔流の辺(あたり)に思いを移し、更に打見山連山は自ら古武井海浜に走りてその影を没するあり。山間の景趣(けいしゅ)いつもながら雄大秀麗(ゆうだいしゅうれい)、硫黄鉱の発見者、山野千松にしての功(いさお)は今尚この山姿に偲ばれて、万古不易(ばんこふえき)の色を呈するように思われた。
 暫くして、青盤と名づくる硫黄製錬所に到着した。そこには玉村式鉄索(てっさく)のある所だ。まだ日も早く出帆迄には時間あり、いざこれより徒歩にて出かけばやと携(たずさ)える手荷物はこれを、「トラック」運搬馬子に依頼し一人飄然(ひょうぜん)として平坦なる青盤街道を辿(たど)り、玉村式鉄索(てっさく)装置を見学して、これを「ノート」に記入し再度(ふたたび)身は浮草の定めなき古武井川を沿うて海浜に到着した。
 古武井の海浜は後(しり)えに恵山を控えたる漁村で、北の方長蛇の横たわるがごとき汐首の岬に面し、東の方、雲乎山乎呉乎越乎(くもかやまかごかえつか)、水天髣髴(すいてんほうふつ)の間に青森の連峰を看(み)る。気清く山光水明己(おの)ずから相州(そうしゅう)鎌倉に類似し、風景なかなか美なり、もしそれ浪なく気温かければ、浜辺の清遊はかの不浄なる函館大森浜の比にあらず。羸痩(るいそう)(衰え痩せている)せる病者来たり転地療養せんか、かの豆州(ずしゅう)熱海に遊ぶよりも弥(い)や勝らん。大沼や湯の川に遊ぶ人々も函館を距る一〇里外にかくのごと静遊保養の地あらむとは夢想せざるべし。殊に古武井海浜には硫黄鉱の発見者山野千松の遺族、旅館業を営めるあり、山メ一とさえ言えば誰知らぬものはない。極めて親切で暴利を貪らぬ事は余の認めるところである。
 午後七時、鑛運丸は硫黄一二〇噸(トン)を満載し古武井を出帆、同一一時函館入港。かくして余は今回三井古武井紀行記を終えたのである。      (終り)