(2)山砂鉄

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 日ノ浜海岸の背後、高岱(たかだい)地区(古武井小学校裏手)に連なる20~40メートルの海岸段丘の堆積物中に賦存する砂鉄鉱床である。その主体は更新世の日ノ浜層で、さらにその上位の新規段丘堆積物のなかにも胚胎(はいたい)していた。
 鉱床は、昭和32年(1957)から翌33年にかけて東北砂鉄鋼業株式会社がボーリング探鉱を行い、同35年(1960)12月より同37年6月まで操業しているが生産高については不明である。その後、同38年(1963)11月には三菱鉱業株式会社が採掘権の譲渡を受け、探鉱調査ならびに開発計画を立てたが、翌39年10月「北海道工業株式会社」が租鉱権を受け試験操業の結果、採算十分とみて昭和40年(1965)4月より本格的な操業に入り、以降、同47年(1972)まで続けた。この鉱山は山砂鉄として、当時、北海道一の生産規模を持つ鉱山となった。
 鉱区の地質及び鉱床については「北工古武井鉱山概況」北海道工業株式会社・昭和40年4月1日等を資料に概略を記す。
 この地方に分布する地層は、上位から沖積層、ローム層、更新世海成段丘堆積物となり基盤は新第3系の緑色凝灰岩(グリーンタフ)である。沖積層は海浜及び古武井川、空川流域に分布し砂礫層を主体に泥炭層を挟在する。ローム層は段丘上に厚さ6~8メートルで分布し、黄褐色の粘土や軽石粒で構成されている。
 砂鉄鉱床は、海成段丘堆積物中に賦存する。海成段丘堆積物は、厚さ10~20メートルで上半分は含礫砂鉄層を形成し、下半分は粗粒砂、青灰色粘土、凝灰岩、安山岩質礫等よりなる。全般的に固結が進み、特に上半分の砂鉄層は砂岩状を呈しているところ見受けられる。鉱床の分布は、延長、北西−南東方向に720メートル、幅、南東−南西方向に400メートルの範囲に賦存している。表土は主としてローム層よりなり、鉱床の北西部で厚く南東部に向かって行くに従い薄くなる。表土は平均して6メートルくらいの厚さである。賦存する砂鉄層は不規則なレンズ状をなし、厚さ平均約6メートルであるが局部的には16メートルにも達するところがある。このほか南南東、空川を隔てた第3台地にも延長1,000メートル、幅300メートルの範囲に賦存が予想された。
 これら段丘堆積物の砂鉄は、比較的上部に濃集し着磁率12~13%、全体的には5~6%と低い。この下位の日ノ浜層中では全体的に濃集し着磁率は非常に高く30~45%、ときには50~60%に達する。上位も合わせて、この山砂鉄層の着磁率は平均27.4%になっている。
 ここの砂鉄鉱床は、砂礫・軽石・火山灰ときには頭大の玉石が相当量混入しており、選鉱の前処理として除礫が問題となった。
 
<北海道工業の操業>
 操業方法は、「剥土」−「採掘」−「除礫」−「選鉱」の手順を経て『精鉱』となる。
 
剥土 表土をブルトーザーにより取り除き砂鉄層を露出させた。剥土した土は採掘跡に充填するように堆積処理し現地の安定を図った。表土のローム層中の軽石粒は水分の吸収が大きく、特に雨天の剥土作業は原則として行なわなかった。
 
採掘 露天採鉱法でブルドーザーによる機械堀を行った。原鉱品位の均等と給鉱量の安定を計るため一定斜面を削り下げ、かさ上げ混合したものをショベルでダンプカーに積込み除礫場へ運搬した。切羽の状況によってはドラグショベルも併用した。
 
除礫 この砂鉄鉱床は先にも記したが砂礫や軽石粒・火山灰の多いのが特徴で、選鉱の前処理としての除礫が問題となった。したがって専門的になるが、その方法について少し詳しく記述しておきたい。
 運搬された原鉱は、除礫場最上位にあるグリズリー(150m/m目)に入れ、プラス150m/mは礫置場に堆積し、マイナス150m/mは10mm3のホッパーに入る。ホッパーの原鉱はトラベリングスクリーンフイダーにより、湿式ミルトロンメル(ブラットフオード型破砕機にトロンメルを直結したもの)給鉱されるが、前記フイダーのロール間隔は30m/mであり注水をしてマイナス30m/mの原鉱・礫は、水と共にシュートを経て3mm3の篩下(ふるい)押入タンクに入りポンプにより選鉱場に送られる。また、プラス30m/mの塊状原鉱及び礫は湿式ミルトロンメル内で相互作用で破砕された後、30m/mトロンメルを経て篩下押入タンクに入り選鉱場に送られる。湿式ミル内の余剰の礫は排出口からコンベアにより礫置場へ運搬され、礫は礫捨場、または採掘跡へ運搬して堆積する。以上のような手順となっていた。
 
選鉱 三菱製M−36型クロケット湿式磁気選別機による磁力選鉱であった。選鉱機は粗選機及び精選機とし磁力はそれぞれ1,600ガウス・750ガウスの2系列を設置していた。なお、精選機から出る中鉱の再選鉱はポンプにより粗選機に送鉱し行った。
 
精鉱 精鉱はポンプにより貯鉱槽に入る仕組みとなっていた。
 精鉱の標準分析品位は下表の通りである

[表]

 その他、選鉱方式が湿式であったので相当量の用水を必要とした。用水は沢水・採掘切羽排水を合わせ、沈殿池にため清澄させ循環水として使用、余剰の上澄水は河川に流した。
 従業員については、社員・所長以下12、鉱員13、運転手・特殊車等も含め21、臨時夫3、その他2、常時50名前後が操業に当たっていた。
 精鉱生産高は、昭和42年(1967)~同47年(1972)年平均5万1千トン余り(昭和42年は前年41年と合算)7年間の総計約35万9千トン、短期間の生産高では日鉄鉱業(日ノ浜)を凌いでいる。(生産高については札幌通産局調別表参照)
 なお、北海道工業株式会社の『会社要項』昭和56年10月1日 では、開山以来60万屯を生産したとなっているが、これは粗鉱の生産高と思われる
 これら生産された精鉱は、トラックやダンプカーで古武井山背泊漁港へ運ばれ船積みし函館港中央埠頭に集積、ここから住友金属和歌山製鉄所に送られた。山背泊漁港では砂鉄運搬船の運行の安全を図るため、浚渫や岩礁の爆破などの港の整備を行った。また、精鉱の一部は、寄貝歌の日鉄女那川桟橋からも送り出された。
 
<大昭・三上の操業> その他の操業について
 大昭産業は、昭和34~35年(1959・60)日ノ浜の海浜砂鉄を採掘、粗鉱約2万トン、札幌通産局調では昭和35・36年、6千400トン余りの生産高(精鉱)を上げている。表層が6~8メートルと厚く加えて礫が多く、また、鉱石が硬いため1日の処理量が少なく、まもなく休山となった。
 三上の砂鉄鉱床は北工古武井鉱山と同じく、日ノ浜層の鉱床で厚さ4~6メートル、平均着磁率24~25%となっている。一部に坑道がみられ坑内には約70センチの縞状砂鉄がN45度E5度北西の走向・傾斜で見られた。三上の生産高は昭和42年(1967)~同45年(1970)札幌通産局調で総計約31,700トン余りで鉱床の大部分が採掘された。(生産高については札幌通産局調 別表参照)
 昭和25年(1950)より始まった海浜砂鉄の操業は、同33年から39年(1958~64)にかけて生産は増大し、郷土は砂鉄景気に沸いた。町税の増収、土木・運送などの関連企業は盛業、商業も活気を帯びてきた。公民館・学校・病院など公共建築物の建設、増改築が進み、39年には役場も不燃性の立派な庁舎となり念願の町制施行が布(し)かれるなど、町勢は確実な進展を見せた。さらに同40年(1965)には山砂鉄も操業に着手。同41・42・43年(1966、67、68)には、14万、11万、7万7千トンを産出、昭和47年(1972)閉山までに総計100万トン余りの砂鉄を生産、我が国の製鉄業・産業への貢献はもとより、郷土や地域にも多大な経済的効果をもたらした。
 一方、砂丘や段丘に挟存する砂鉄の採掘は、大規模な剥土という地形の破壊を避けては通れない。砂浜に根を張り可憐に咲く海辺の花も容赦なく剥ぎ取られた。地形が大きく変わり、日ノ浜海岸の貴重な植生を失ったことも事実である。
 また、砂鉄鉱区から縄文晩期の遺跡・住居跡が現れた。晩期縄文に問題を提起する「ヒスイの装身具」が発掘された。偶然にも、鉱山神社が祭られていたので破壊されなかった地域からである。
 

砂鉄鉱区遺跡調査 Cトレンチから出土した完全土器


海浜砂鉄


寄貝歌の砂鉄積出桟橋・日鉄桟橋(昭和32年建設)『東洋一のベルトコンベアーと謳われた』


『ここから積み出された砂鉄は、主として富士鉄室蘭へ送られた』


昭和30年に建設されたベルトコンベアー、その年の12月27日暴風雪により破壊


ベルトコンベアーの施設


日鉄鉱業女那川の浜砂鉄


高岱地区の山砂鉄採掘風景 昭和42年頃


北海道工業古武井鉱山修祓式(山砂鉄)昭和40年7月10日(土)午前10時30分より


海岸段丘に挾在している砂鉄層(山砂鉄)


山背泊漁港からの精鉱の積出し 函館港中央埠頭から本州へ移出される


砂鉄の山 約9千トン 『39万トン採掘したが山砂鉄としては日本一』


『恵山町の砂鉄生産高(1951~1972年度)』 札幌通産局調