湯の川・戸井間に乗合馬車定期運行(明治43年より)

1059 ~ 1059 / 1483ページ
 明治43年11月17日、道庁・函館土木派出所の手により湯川・戸井村字弁才澗間の道路の開削・改良−といっても一部の海岸埋立てと道の拡幅・砂利や粘土質の土で固めるといった簡単なものであったのだが、その年の12月、待ち兼ねていたように湯川村の山川丑太郎は湯川・戸井間の乗合馬車を毎日1往復運行させた。
 この工事の進捗については、同44年1月12日付の函館毎日新聞に「湯の川尻岸内間の道路開削工事は昨年中に竣工し、車馬の往復に便して村民の悦び一方ならざるも……」と記されており、翌44年8月頃には、尻岸内村字古武井辺りまで進み、山川丑太郎に続いて、戸井村の藤木倉蔵も乗合馬車運行に参入した。また、この道路の開削・改良により、荷馬車や大八車などに商品を積み商いをする商人がみられようになった。
 明治44年8月31日付『函館日々新聞』の記事「恵山景勝探訪」の中に、当時の交通費・宿費が載っているので記すこととする。この時代恵山は、道路の開通により観光地として注目され始めてきたのである。
  函館より湯の川迄の馬車賃………10銭
  湯の川より古武井迄の馬車賃……70銭
  古武井宿料12食付…………60銭
  磯谷温泉宿料12食付………60銭
 当時の諸物価、札幌・函館間汽車3等運賃2円26銭、蕎麦(もり・かけ)4銭5厘、豆腐1丁3銭、牛肉400グラム28銭、外米1升23銭などと比較し、湯の川古武井間の馬車賃70銭は相当高額である。乗合馬車が運行になっても利用するのは、物見遊山の裕福な人か、病気あるいは急用の人で、庶民は徒歩か海路を利用するのが普通であった。