大正12年12月、要塞整理要綱が決まり、それに基づき、翌13年7月には、津軽海峡東口、戸井・恵山沿岸を軍事上の要地として「津軽要塞地帯」に編入し、昭和4年には戸井には砲台(汐首岬砲台)の建設を開始した。と同時に、これらの軍事施設に兵士や物資を輸送するため鉄道(当初釜谷線と呼ばれた)の敷設を計画した。
この計画を知った下海岸沿岸の村々では、鉄道の早期敷設、路線の尻岸内・椴法華、さらには森方面までの延長を願い、関係諸機関に精力的な陳情活動を行っている。
昭和9年(1934)の函館毎日新聞には、「釜谷鉄道(戸井線)促進 代表者上京運動 三日夕の連絡船で」との見出しで、『砂子戸井村長以下、村議一〇名有志二名は、過般の大会決議に基づき釜谷鉄道の促進と椴法華迄延長実現を当局に猛運動すべく三日午後五時半の連絡船で上京した』と報道している。
函館市・戸井村・尻岸内村・椴法華村は、これ以降、この鉄道敷設には何度も関係機関に陳情を行っており、これを受け北海道会(道議会)も、昭和10年から15年にかけて、鉄道大臣に対して「函館から椴法華村までの鉄道敷設を望む意見書」を提出している。
以下に、昭和10年に北海道会議長から鉄道大臣に提出された意見書(抜粋)を記す。
昭和十年十二月二十一日 北海道会議長 村上元吉
鉄道大臣 内田信也殿
四、函館市より亀田郡戸井村釜谷を経、同郡椴法華村に通ずる鉄道を速やかに敷設せられんことを望む。
〈理由〉 本線ハ夙(はや)クニ鉄道網ニ編入セラレタルモノナルモ、爾来数年ヲ 経過シテ未ダ敷設ノ機運ニ達セズ、由来、本沿線地帯ハ全国屈指ノ昆布・柔魚ノ漁場ニシテ其生産額六百万円ニ上ガリ、関係町村六か町村ニ及ブ。加ウルニ戸井村ハ既ニ要塞ノ完成(昭和八年、汐首岬砲台完成)ヲ見、一朝有事ノ日ニ備エザル可カラザル必要アルヲ以テ彼此速ニ之ガ敷設ヲ望ム。
戸井線の着工は、昭和10年の鉄道建設審議会で(函館から戸井間での鉄道)建設が決定し、翌11年着工の運びとなる。決定には北海道会・地域住民の強い要望・陳情も功を奏したであろうが、やはり、軍部の強い要請−昭和8年汐首岬砲台(戸井砲台)の完成・津軽海峡東口の防衛強化を急ぐという軍事的状況が早期着工の決め手になった。
これを機に戸井線延長促進派の中には、森までの延長を望み運動を進めようとする意見もあったが、鉄道大臣の意向に触れている北海道会の見解「椴法華までの延長でさえ無理なようである、ましてや森までなどは……」という事から「せめて、尻岸内村古武井まで延長して欲しい」という切望へと狭められていく。