1、進学の状況

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六・三制  戦後の教育改革の中核をなすものの一つとして、六・三制が挙げられる。これはただ単に、義務制を3カ年延長した新制中学校を創設したということではない。
 戦争のため延期となっていたが高等科2年の義務化は既に決まっていたし、中学校、実業学校等に進学しない生徒を青年学校(昭和14年から義務制)に入学させるなど、義務教育年限の延長だけに限って言えば戦前・戦中もその制度を着々整えてはきていた。
 しかし、この六・三制は単なる義務教育年数の延長という制度の改正ではない。この制度の理念は、新しい憲法の第26条「〈教育を受ける権利〉1すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。」にある。
 従来の教育は義務教育終了後の段階から、学校系統が細かく分かれ、大学まで到達できない行き止まりの「袋小路」の不平等な教育、いわゆる「複線型」であった。これをだれもが平等に教育を受けることができる「単線型(六・三・三・四制)」、義務教育から大学まで進学できる体系に再編成した、学校制度改革の中核をなすものなのである。
 
進学と庶民の意識  戦前の統計では、およそ765万人余りの義務教育終了生徒のうち、旧制高等学校・専門学校(現在の大学に相当する学校)と大学の高等教育を受けたのは、僅か5パーセント弱となっている。これらのほとんどは相当の富裕層か上流階級、あるいは知識層・指導者階級の子弟であった。
 本町の場合、大学はいうにおよばず中学校、実業学校への進学でさえ数人を数えるほどであった。進学について古武井小の沿革誌には次のような記述がある。
 
 「明治四十三年度卒業生、佐々木トクは函館高等女学校(現函館西高等学校)入学試験に合格す。当校卒業者にして直に中学校に入りしものは之を嚆矢(こうし)とす。恐らくは当村小学校に於ては本校の外未だ斯る例なからん。明治四十四年度卒業生、越前健次郎は函館中学校(現函館中部高等学校)入学試験受験者の内に於て優等の成績で合格す。本年も当村内に於ける他の小学校卒業生にして中等学校に入学せるもの本校のみとす。受験者弐百余名、合格者百名の内成績四拾六番なりき」
 
 また、同校の昭和18年度卒業証書授与式の学事報告の中に次のような記述がある。
 
 「…本年度在籍者数は初等科男一三五名女一一四名計二四九名、高等科男三三名女三九名計七二名、この内初等科第六学年修了生は男二四名、女一六名、計四〇名で中学校志願者は男二名、女一名、計三名であります。高等科二学年修了者は男一三名、女二〇名、計三三名で中学校志願者は男師範学校一名・工業学校一名、計二名、女昭和技芸女学校一名、女子商業学校一名、合計四名、就職者は…」
 
 明治43年度の函館高等女学校(庁立高女と呼ばれた、当時の名門女学校)、44年度の函館中学の合格は“本校の外未だ斯(し)かる例なからん”と記しているように、当時としては希有のことであった。(なお、函館中学合格の越前健次郎は古武井鉱山の幹部の子弟で、もともとの尻岸内在住者ではなかった。また、佐々木トクについては不明である)。当時の尻岸内村の漁師にとって、“子供の教育は高等科までいけば十分、まして女子の進学などは考えにもおよばない”といったところが一般的な認識であったと思われる。
 しかし、昭和の時代ともなれば、函館との交流は頻繁となり、漁船も動力に変わるなど、漁業の近代化が進む中、漁家の子弟も青年学校の講義を通し、新しい知識・技能の必要性を感じ取っていた筈である。にもかかわらず昭和18年度の進学の状況は上記のとおりで非常に低い。戦時下とはいえ道南は未だ戦禍を受けることもなく、生産活動もそれなりに続けられていたが、村民の“漁師には学問はいらない”という認識はやはり変わっていなかったということであろうか。
 
東光中学校発足当時の進学状況  戦後の教育改革、六・三制により開校された新制中学校の進学状況について記す。
 先にも述べたが六・三・(三・四)制は義務教育終了後、希望により、だれもが高等学校・大学にまで進学することができるようになった制度なのであるが、この進路状況調べを見る限り、進学率はなかなか上がらなかったのが現状である。
 昭和27~29年頃の進学率は、戦後の産業復活による雇用の拡大から本州企業に集団就職し企業内学校で学ぶ生徒の増加、また、函館市内の企業で働きながら定時制高校に進学する生徒の増加などによるものと推察する。
 当時の下海岸の各村は函館市の公立普通科高校の学区であり、市内には実業高校や特色ある私立高校、全道的に知られた名門女子校も多く、尻岸内・東光中学校生徒の函館の高校への進学希望は少なくはなかった。
 しかし、未だ“漁師には学問はいらない”といった意識と“進学はさせたいが下宿代もかかるし、それに働き手が足りなくなる”といったことから、多くの生徒は進学を断念せざるを得なかったというのが実情ではなかろうか。
 尻岸内村教育委員会は、このような進学についての実態を把握し父母の負担を少しでも軽減するために、函館市五稜郭町通称行啓通りに「学生寮」を経営することとした。このことについて〈資料〉『恵山むかしむかし・尻岸内寮物語』に記しているが、尻岸内学生寮から巣立った生徒は数多い。卒業後帰村し役場職員となり要職に就いた人、函館や道内の民間会社で活躍した人、企業を起こした人、公務や教職についた人などなど、この寮出身の有能な人材は枚挙に暇はない。
 このように、尻岸内学生寮は函館市内への進学についての成果は著しかったものの、多くの村民、とりわけ漁家の父母は、地元に漁業を学ぶ高校を誘致してほしい、という願いが強かった。

『東光中学校進学状況調べ』より
*各種学校については企業内学校が主でいわゆる就職進学である。