2、青年団の活動・発足から戦前まで

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 村内の青年団活動はそれぞれが活発な活動を行っていたが、内、地域の特性を生かした活動について2、3拾ってみる。
 
〈日浦青年会の活動から〉 日浦青年会は加入率もよく結束力も強かった。「会員ノ中カラ矯風取締員ヲ選出シテ少年ノ飲酒喫煙ヲ禁ジ貯蓄ヲ励行、又、武道ヲ奨励シ夜学会ヲ開キ、アルイハ日浦・原木峠ノ山道ヲ交通ニ便ナルヨウ修繕ナドヲセリ(大正四年三月町有文書)」との記録が残っているが、心身の鍛練と社会奉仕への活動が顕著であったことが窺える。
 
尻岸内青年会の活動から〉 尻岸内青年会も体育会を開催し尚武精神の昂揚、夜学会を開催、又道路修繕・共同貯金・植樹の奉仕活動を行い、大正6年には海岸5箇所に『澗標灯(まじるしとう)』を設け漁家の利便・安全を図るなど、漁業後継者としての資質の高さが窺える。
 以下、当時の新聞報道から青年団の活動のようすを拾う。
 
〈新聞『函館日々新聞の報道』にみる青年団の主な活動〉
 ・明治45年2月 「古武井青年会総会」去る四日古武井青年会は第四回総会を古武井小学校に於いて開会せるに会員三二名集合ありて吉田幹事開会の辞、戊申詔書を奉読し、大西古武井小校長の青年刻辭及び本会につき有意義なる講話で始まる。
 ・大正5年2月「古武井青年会創立式」十七日午後七時古武井小学校に於いて新訓令の趣旨にに基づき創立式を挙げる。砂山村長、有志、在郷軍人の列席あり。
 ・大正7年9月「尻岸内青年会の講演会」木津谷孫太郎宅に於いて、東京中央青年団指導者講習に出席した溝口留吉尻岸内小校長の講演「日本と支那の関係とシベリヤの現状」
 ・大正9年1月「尻岸内青年団会員募集の活動」尻岸内青年団第二部は青年の精神修養に関して従来熱心に奨励し来たれるが今回さらに会員の募集に着手、民力涵養に全力を尽くす。
 ・大正11年6月 「磯谷青年会活動 第二鉱運丸救助に」七日尻岸内村字磯谷オツケにて座礁せる第二鉱運丸を、磯谷青年団長泉吉三郎氏は一九名の団員と古武井駐在高橋巡査と協力し救助する。
 ・大正13年1月 「根田内祝賀式」根田内・磯谷青年会外有志一同は二十六日午前十時より同地小学校に参集皇太子御成婚祝賀会を挙げる。丹野校長及び有志の祝辞、祝奉歌斉唱し閉会す。
 ・大正13年6月 「覇を争う渡島健児 第一回渡島青年団連合競技大会」二十九日午前八時、ポプラが丘函中運動場に於て挙行さる。必勝の意気凄まじく壮観を極めし競技、尻岸内連合青年団も参加する。
 
 大正十四年二月二十六日 函館毎日新聞『根田内青年団』
 “去る十五日午前十時より、根田内小学校に於いて第三回総会を開く”
 まず、梅津会長開会を宣言して、君が代合唱、丹野根田内小学校長、国民精神作興に関する勅書を奉読し、会務報告、会計報告ありて後、大正十四年度予算収支とも、別次の如き四二五円を原案通り可決し、役員選挙を行う。各班より一名宛立会の上開票の結果、左記のとおり当選せり。午後一時出席会員五〇余名、来賓と共に油揚飯に舌鼓を打ち二時再会す。(午後)吉岡学務委員の「青年団の発展に望所以」川畑村会議員の「人間殊に青年は学問修業第一」。古武井の梅川村会議員の「共同一致」。佐々木村議の「地方時事問題指導」。丹野校長の「青年団は如何に進むべきか」。武石村長の「実践躬行」の有効な講演あり。
 団員の五分間演説に移り、高松(倉)君の「青年の急務」、高松(開)君の「我が弟妹を愛せ」等、熱弁をふるい午後五時を過ぐ。余興として、追分、安来節等あり。
 最後に三角章の歌を合唱、大坂副団長の挨拶ありて午後六時閉会せり。
 〈選出された役員〉
 団  長  梅津喜代治
 副団長  大坂豊作 忠村栄一郎
 評議員  三好虎八 田中常松 北野初蔵 非利由太郎 笹田由蔵
 運動部長  泉 松一 弁論部長 吉田亀蔵
 水難救護部長 田中兼務
 班  長  谷藤直次郎 村田 武 大坂留雄 村田 勇 高松倉次
 幹  事  松永誠三郎 中野吉勝
 会  計  三好又蔵 高松卯吉               以上
 
 昭和に入ると、青年団活動は青年学校と一体化し全体奉仕、国防、戦争遂行の思想の色彩がいよいよ濃くなり、女子青年団も組織強化が叫ばれ活動も一段と活発になってくる。
 
 ・昭和3年3月「尻岸内女子青年発団式」尻岸内村でこの度聯合女子青年団を組織、一一日午後一時尻岸内小で発団式が行われ近藤支庁長橋本師範学校長が列席、団長に十倉村長就任す。
 ・昭和5年3月「青年弁論大会・尻岸内に於る」尻岸内第一部青年団、二日午後五時中野氏宅で弁論大会を開催、来賓に浜田村議北村聯合団幹事らを迎え出席団員五〇名弁士熱弁を振う。
 ・昭和7年3月「尻岸内聯合青年団・第一弁論会」三月六日午後一時より地久節を卜して第一回聯合弁論大会を開催、二〇人の弁士が熱弁を振るった。
 (尻岸内) 上田豊吉“起ちて新しき日本を建設せよ”
       同上田定義“古き殻を脱ぎ棄よ”
 (古武井) 佐々木才太郎“時代の要求とわれらの使命”
       同芹田天随“努力を以て新日本を建設せよ”
       同穴水順平“国家興亡の分岐点に立ちて”
 (日 浦) 東鐵太郎“青年の奮起を望む”
       同東助作“真剣”
 (根田内) 辻田清治“此の一念を以て国難に当れ”
       同三好信一“覚醒は万人の要求”以上、幾つかを記す。
 ・昭和9年3月「青年団挙って“イガ栗頭”」尻岸内青年団ではこの程、非常時に備える漁村青年の意気を示す意味から団員全部が頭を刈りグリグリ坊主頭とした。
 ・昭和10年4月「日浦青年団の道路修繕奉仕」二十六日の大波により日浦、尻岸内間の海岸道路が決壊、自動車・馬車が不通となった為、日浦青年団は五〇名余りを動員し道路修繕に努める。
 ・昭和11年6月 「古武井女子青年団・団旗入魂式」尻岸内古武井女子青年団は木元団長の指揮のもと団の活動の一環として空物買い、疏菜・花種子の分譲などで得た利益を基金に、念願の女子青年団旗を購入、十二日午後一時より古武井海積神社に於いて入魂式を行う。
 ・昭和12年10月「国防献金の演芸会・御崎村にて」尻岸内村御崎青年団は十七日、国防献金募集の為の村民慰安演芸会を井上軍治氏宅にて開催、観衆に多大の感動を与え純益を国防献金した。
 ・昭和13年10月「銃後は全し・若人達の此意気」古武井青年団並びに青年学校生徒は、二十七日総動員で応召軍人家族の冬季薪材運搬の労力奉仕をなした。又、恵山青年団・在郷軍人・青年学校生徒は応召軍人家族の薪材を古武井から山出しする労力奉仕をした。
 
 戦前戦中の青年団活動の中心となって活動した人達の多くは、村の要職につき、郷土発展のために尽力している。青年団三役を務め村議となった浜田伊三郎・佐々木才太郎・石田富蔵・梅津喜代治・川村留吉、村議としてまた温泉経営に活躍した石田覚蔵、戦前後村議6期を務めた商工会の小田吉三郎、漁業組合長斎藤豊吉、初の民選村長に当選5期を務める前田時太郎の諸氏、戦後、教育委員会の社会教育主事となり青年団の組織・活動に尽力した佐々木玉吉氏ら特筆される人達のみ列挙する。

大正15年7月16日函館毎日新聞『二つの峠を走破し 尻岸内四選手』
当時の陸上競技大会に活躍した若人たち(根田内青年団)