一、和人渡来の始め

148 ~ 150 / 1305ページ
 明治末期か大正初期の頃に、日新小学校何代目かの校長の手によって書かれたらしい『戸井の沿革史』に「戸井の草創は文治五年頃である」と書かれており、従来これが踏襲(とうしゅう)され、公的な町村要覧にまで記述されて来た。
 戸井の草創を文治五年頃とすることは、「歴史を知らない者」「年代観念のあいまいな者」の空論、妄説(もうせつ)である。「戸井の草創は文治五年頃」という誤りは訂正すべきである。
 「文治五年草創」という妄説を書いた者は、義経の一行が文治五年に平泉から逃れて渡島(ととう)したとか、義経を討って頼朝に攻められ、敗れて逃げた藤原泰衡(やすひら)が比内(ひない)で部下河田次郎に殺され、その従者が蝦夷地に逃れたという伝説と、コシャマインの乱の頃に戸井に和人の館があったという伝説に基づいた推定であろう。
 文治五年(一一八九)は十二世紀の後期であり、道南に和人の館があったということが記録に残されているのは、康正、長禄の頃で、十五世紀の後期である。道南に和人が館を築いたのは永享、嘉吉の頃からと思われるが、この時代にしても十五世紀である。十二世紀の義経、泰衡の事蹟のあった文治五年と、これより三百年後の十五世紀頃の戸井の和人の館とを結びつけて「戸井の草創は文治五年頃」とすることは妄説も甚だしい。
 和人が道南に来た(渡島)と思われる事蹟を年代順に列挙して見ると
 
①文治五年(一一八九)四月二十九日
  源義経が平泉の高館で藤原泰衡に攻められ、蝦夷地に逃れたという伝説
②文治五年(一一八九)九月三日
  義経を討った泰衡が頼朝に討たれ、逃れて比内(ひない)の河田次郎の柵(さく)に寄り、河田に殺され、その従者がちりぢりになって蝦夷地に逃れたという説
③建保四年(一二一六)六月十四日
  東寺を襲った凶賊海賊の類五十余人を捕えて一旦奥州に送り、後夷島に放逐(ほうちく)したという記録
④文暦二年(一二三五)七月二十三日
  「夜討、強盗の張本人は直ちに断罪し、枝葉罪者(従犯者)は関東に召し集め、夷島に遣(つか)わすべし」と定められたという記録
  「註」文暦二年九月十七日に嘉禎(かてい)と改元された。
     凶賊、海賊、夜討、強盗などが、いつ、何人、どこへ流されたかという記録はない。
⑤永仁四年(一二九六)
  日蓮上人の高弟で六老僧の一人といわれた日持(にちじ)上人が蝦夷地に渡ったという伝説
 大体以上の事蹟や伝説ぐらいのもので、文治五年は、日持上人が渡島したという伝説のある永仁四年よりも一〇〇年前である。一〇〇年後の日持上人の事蹟ですらあいまいな伝説なのに、文治五年が戸井の草創だということは歴史を知らない者の妄説である。
 又日持上人渡島伝説の永仁四年(一二九六)は南北朝時代の始まる広弘二年(一三三二)より四十七年前なので、日持上人渡島の頃も戸井に和人の館があったということは考えられない。