汐首は対岸下北半島の大間と最短距離にあり、昔は和人地と東蝦夷地との境界として、日本の歴史にその名をとどめている場所である。下海岸唯一の円空仏が昭和四十二年に津軽海峡を望む汐首岬の高台の観音堂で発見され、寛文の昔円空上人がこの岬を訪れたことを物語っている。
汐首観音堂には、この岬で遭難した船の船主が寄進したものと伝えられる正徳五年(一七一五)作の銘のある大鐘鼓があり、寛政年間に一代の豪商高田屋嘉兵衛が、観音堂に寄進したと伝えられるミカゲ石(花崗岩)の鳥居の残骸がある。鳥居の中央に掲げたミカゲ石の扁額には、「観世音」の三字が刻まれている。外国船がしきりに北海道の沿岸に出没した天保の頃、観音堂のある高台に砲台が置かれた。
このように汐首という所は古い歴史を秘め、戸井でも古い文化財の残されている場所である。こんな古い歴史を持った地域であるが、協同性と革新性の胎動のあった地域である。
①鰮建網の建場分け。
汐首岬は鰛の大漁場所であった。明治初年に十ケ統の建網が許可になった。この頃汐首の戸数は四十七戸あったが、部落協議の結果、汐首部落全戸で建場を分けた。
建場は次の通りであった。
○〓長浜(独立)
○〓松田(独立)
○〓谷藤(独立)
○〓奥野、〓三浦、〓奥野、〓佐藤(〓共同)
○〓吉田、〓松田、〓境(中の網)
〓松田、〓境、〓巽 (瀬頭)
○〓泊沢、〓佐藤、〓米谷(赤岩)
○〓境(独立)
汐首部落四十七戸が、これらの建場に所属して共同経営をした。このような例は汐首だけであったという。
②仕込(しこみ)制度打破の試み
仕込制度は昔全国の漁村にあったものであるが、下海岸の漁村でもこの制度が長い間続いた。仕込制度は函館の海産商から漁具、米、味噌、酒、日用品等を代金後払いで供給を受け、漁獲物を提供するという仕組みであった。海産商は漁家に供給する物資を高く売りつけ、漁獲物は安く買い取り、漁民から搾取(さいしゅ)することによって富を築いたのである。漁村はこの仕込制度のため貧乏に苦しみ、仕込元からの借金を払うために、祖先伝来の山林や土地を売った網元が相当あった。又、函館あたりの海産商などが漁場を所有し村の人々を使用して経営したものを仕込漁場といった。
昭和八、九年頃、汐首部落に「不合理な仕込制度を打破しよう」という機運が盛り上り、汐首産業組合が結成された。初代組合長に〓松田富三郎が選ばれ、二代組合長に〓米谷富蔵が選ばれて活動したが、満洲事変、支那事変と戦争が続いたため立ち消えになった。
汐首部落は協同性、革新性の強い地域である。