地蔵菩薩像
伝大蓮作釈迦如束像
戸井町館町の法泉寺に二体の木造仏が所蔵されている。一体は釈迦如来の坐像で高さが二二、一センチ、他の一体は地蔵菩薩の立像である。現住職の語るところでは、二体とも昔、某檀家から寺に寄進されたものだという。
この仏像の来歴等一切不明であり、作者の署名もないので作者も不明であるが、函館市の森川不覚が仏像写真集を刊行し、その中で「目定上人作」と書いている。然し仏教研家家須藤隆仙は「目定作というのは誤りで、大蓮作である」と、この型の仏像を調査考証した結果断定している。
須藤隆仙は、その著『日本仏教の北限』(昭和四十一年八月刊)の中で「最近、大蓮作の仏像が某写真愛好家によって目定作と喧伝された。しかしこの喧伝の立役者が、昭和三十六年刊行の『北海道の鉈彫(なたぼ)り』という写真集の中で、目定というのは架空の存在であったことを告白した。それによれば、昭和二十八年、江差で発行された「史蹟と観光」というパンフレットに「寛文二、三年間目定上(○○○)人が滞在した。その僧が彫刻した仏像が九体附近から発見されている」とあるのが、某写真愛好家が目定作と喧伝した根源である。江差附近の九体の仏像というのは円空作の仏像である。
これによって寛文年間に渡来した円空を目定と誤植したことが明らかで、印刷のミスから円空が目定になったのである。このパンフレットの誤植を仏教研究の専門家でない某氏が鵜呑みにして、目定という架空の人間をつくり上げたのである。」と書いている。
須藤隆仙は某氏が目定上人作と喧伝した仏像を調査した結果、仏像の底面に「仏子大蓮」という墨書銘のある仏像一体を発見し、この型の仏像は大蓮作であると断定した。同類の仏像が道南地方から百体以上も発見されているが、大蓮という僧の経歴は未だ不明である。
万治二年(一六五九)の夏、松前の欣求院で千体仏供養の法要が営まれ、この時大蓮作の仏像がまつられたらしいのでこの頃大蓮が蝦夷地に滞留していたことが推定される。万治二年の阿弥陀像千体供養の際にあった仏像が、松前の港に来た漁夫によって盗み去られ各地に散らばった。そのうちの一体が、日高国の平取(びらとり)にある義経神社に祀られていたが、明治初年の神仏分離令による排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際に義経神社から放り出され、一時東京の博物館に陳列されたこともあったが、その後函館市称名寺の檀家の有志がこれを買い取って称名寺に納め、この仏像は現在称名寺にある。称名寺にある仏像は、大蓮作のものとしては大型のもので、欣求院阿弥陀千体仏の中心に安置されたものと推定されている。
現在までに各地で発見された数多くの伝大蓮作の仏像はすべて小型で、高さ三十センチ内外のものである。大蓮は円空と大体同じ頃に蝦夷地に滞留したものと推定されているが、その来歴については明らかではない。
七飯町大中山の富原喜久夫家には、完全に保存された円空仏が伝承されているが、同家には伝大蓮作の仏像も三体ある。
美術家は戸井町法泉寺の釈迦如来像を「目定(大蓮の誤)の作品のうちでは一番まとまっていて面白い。然し実にプリミチーブなものである」と評している。
戸井町内では法泉寺の外に、弁才町の〓梅原家、泊町の〓伊藤家、浜町の〓新山家などに作者不明の木像仏が祀られている。