1、吉田大吉
明治二十年(一八八七)九月三日、釜谷の吉田大吉が釜谷沖で暴風のため、遭難寸前の小廻船を救助し、乗組員五名の命を助けた。この行為が時の北海道庁長官、永山武四郎から表彰された。この時大吉は四十六才であった。大吉は佐治右衛門の長男として、天保十二年(一八四一)十二月九日、釜谷に生れ、小安村学務委員、戸井村第六部長その他の役職を勤め、明治十七年(一八八四)六月、岩手県勧業博覧会に折昆布を出品して、一等賞牌を授与され、明治三十三年(一九〇〇)九月、亀田水産物営業組合から優良役員として、表彰状並に記念品として、高橋泥舟筆の壱軸を贈られた。日清、日露の両戦後には卒先して、軍資金に多額の奇附をし賞状を賜わっている。
大吉は大正二年(一九一三)九月七日、七十五才で病歿した。
(人命救助の際の表彰状) 吉田 大吉
明治二十年九月三日、渡島田亀田郡小安村字釜谷沖合ニ於テ、胆振国有珠郡西紋別村、工藤善六所有小廻船ノ覆没セントスルヲ認メ、高田綱蔵ト力ヲ協セ、村民弐拾名ヲ催シ、遂ニ乗組人、大崎半兵衛外四名ヲ救助候段、奇特ニ候事
明治二十一年八月十八日
北海道庁長官従四位勲三等 永山 武四郎
○〓 吉田家の系図
才吉―佐次右衛門―大吉―勝三郎―菊太郎―勇一郎
2、池 田 浅次郎
大正二年(一九一三)八月十五日、ブリ釣に出漁中の字横泊、谷藤岩太郎(当時三一才)谷藤惣太郎(岩太郎の末弟当時一五才)、谷藤熊蔵(岩太郎の甥当時一七才)の三人の乗った舟が、横泊沖合約三〇〇米の海上で、大潮のため転覆した舟の底にはえ上り、溺死寸前の状況であった。
三人は陸に向って必死の救助を求めていた。村人多数が陸岸に集まり、この状況を見ていたが、身の危険を恐れて救助に向う者はなかった。この時「よし、おれが行く」と、横泊の池田浅次郎が褌一本のはだかになり、人々のとめるのも聞かず、単身磯舟を乗り出し、大潮の波を乗り切って、見事に三人を救助した。村人たちは浅次郎の勇気を賞讃した。この時浅次郎は四十一才であった。
浅次郎のこの奇特な行為に対し、時の北海道庁長官、俵孫一から感状並に木杯一組が授与された。
池田浅次郎は明治七年(一八七四)七月、〓伊藤重右衛門の二男として生れ、横泊の〓池田叶次郎の養子となり、叶次郎の長女ツネの配となり、家督を継いで家業に精励し、鰮の豊漁が続いて、一代で巨万の富を築き、戸井村屈指の資産家になった。鰮の網元としては「〓の青繩粕」として、その締粕は全国にその名を馳せたのである。
浅次郎は昭和二十二年(一九四七)一月二十九日、七十四才で病歿した。
○〓池田家の系図
叶次郎―浅次郎―久蔵