六、刀工、研師 芳賀国賀(くによし)

548 ~ 551 / 1305ページ

芳賀竹松(号国賀(くによし))

 戸井に芳賀国賀(くによし)と号する日本刀の鍛造、研磨の名手がいる。国賀は本名を竹松といい、大正二年(一九一三)十二月十九日、芳賀貞次郎の三男として戸井村字浜中に生れた。
 日新小学校卒業後直ちに、鍛治職を志し、函館市若松町の鉄工所、境政次郎に弟子入りし、ここに七ヶ年勤め、昭和九年丁稚(でっち)奉公を終った二十一才の時、日本刀研磨に興味を持ち、函館市在住の研師竹下泰国に弟子入りし、鍛治職のかたわら日本刀研磨の術を学んだ。
 昭和十二年、二十五才の時、鉄道に就職して室蘭市に移り、勤務のかたわら室蘭在住の刀匠堀井俊秀に師事した。日支事変が始まって以来、軍刀の需要が激増し、軍は全国各地の刀工に軍刀鍛造を依頼した。この時国賀は竹下泰国、堀井俊秀の推薦により、軍刀の鍛造研磨を依嘱され、函館において軍刀の鍛造研磨に専念して腕を磨いた。この間昭和十七年四月に開催された文部省後援の「第七回新作日本刀展覧会」に、加州炭(すみ)の宮(みや)藤原兼則の作刀を研磨して出品し、研磨の部において「推薦」の証を授与された。展覧会後この展覧会出品作の審査理事長を勤めた当時の名刀匠栗原彦三郎から入門をすすめられたが、家庭の事情からその招聘(しょうへい)に応じなかった。このころ鍛造の部で「推薦」の証を得た宮入昭平は栗原彦三郎に入門して腕を磨き、終戦後日本刀鍛造で「人間国宝」に指定された。国賀は栗原に入門することはあきらめたが、日本刀鍛造の秘伝を体得(たいとく)するために会津に行き、会津藩の御用刀鍛治の子孫である三代若林重房に入門し、六ヶ月間鍛刀の術を学んだ。
 昭和十八年十二月に開催された陸軍兵器行政本部主催の「第一回陸軍軍刀展覧会」に、自ら鍛造し研磨した日本刀を出品して「会長賞」を授与された。このようにして益々日本刀の鍛造と研磨の腕を磨き名人の域に達したが、昭和十九年、太平洋戦争に召集され、支那大陸に派遣されて転戦中に終戦となり、昭和二十一年五月に帰国した。帰国後、郷里戸井において刃物鍛治を業としていたが、国賀の造った刃物の切れ味は、他の追随を許さないくらい優秀である。
 昭和三十年に宮川神社外五社の神職小野武男から、松前神楽の「〆引舞(しめひきまい)」に使用する日本刀の鍛造を依頼され、斎戒沐浴して鍛造研磨して九月に奉納し、北海道神社協会よりの感謝状に添えて、戸村村氏子連合会より記念品が贈られた。このころ銭亀沢村字古川町の川濯神社からも〆引き刀を依頼されて奉納した。二振とも古名刀と見誤るくらいの見事な出来栄えである。
 近年日本刀の美術品としての価値が高まり、従来所持していたものや新しく発見したものを研磨する人々が激増してきた。然し北海道には専門の研師は極めて少なく、現在では旭川市、札幌市に各一人、戸井町の国賀を含めて僅かに三人よりいない。
 芳賀国賀の研師としての名が喧伝され、全道各地から日本刀や槍などの研磨を依頼する人が次々と訪れ、刃物鍛治を廃業しなければならないような状態である。
 日本刀鍛造研磨の名手国賀がいることは、戸井町の誇であり、国賀は正に「人間文化財」である。
 

推薦の証書

     証
 
   推薦       室蘭  芳賀 竹松
 右者文部省後援、第七回日本刀展覧会審査会ニ於テ、審査ノ結果頭書ノ如ク決定シタルヲ以テ、本證ヲ授与候也
   昭和十七年四月十日
     総裁             候爵  大隈 信常
     名誉会長     陸軍大将  男爵  荒木 貞夫
     会長 審査会長  海軍大将      竹下  勇
     副会長      海軍中将      渡辺  寿
     副審査会長              福島 保三郎
     理事長                栗原 彦三郎
  文部省後援第七回新作日本刀展覧会
 

会長賞の賞状

     賞状
  会長賞                      北海道 芳賀国賀
右試断ノ結果、其ノ匁味優秀ナリ 仍テ茲ニ之ヲ賞ス
  昭和十八年十二月八日
 陸軍兵器行政本部主催   第一回陸軍々刀展覧会
 
     感謝状
                         芳賀竹松殿
 日本刀一振自から鍛え、仕上げて、宮川神社に奉納せられ、今後戸井村六神社に於て、松前神楽〆引の舞に使用する事になりましたことは、喜びに堪えません。
 茲に戸井村氏子連合会よりの記念品を添えて、感謝の意を表します。
  昭和三十年九月十九日
                   北海道神社協会長  種田 留右衛門