昭和八年三月に漁業法が改正され、旧来の漁業権管理を主体とする漁業組合から漁民の福利厚生を目的とした共同利用施設が整備され、経営の共同化という建前で漁業協同組合が組織されることになった。
戸井に於いては、北海道条例にもとづいて昭和八年八月二〇日に戸井無限責任漁業協同組合が設立された。
組合員は漁業に従事する者の強制加入方式で、戸井村字小安、釜谷、汐首、瀬田来、弁才澗、横泊、館鼻、浜町、鎌歌、原木の一〇地区で九八〇名を数え、その数は当時としては全道第二位の実績を誇った(全道第一位は増毛の組合員数一、〇〇六名であった)
役員氏名
組合長理事 金沢 藤吉
理 事 砂子 賢蔵(小安地区) 斉藤 栄作(釜谷地区)
原 友三郎(汐首地区) 石田 源次郎(瀬田来地区)
金沢 藤吉(横泊地区) 丹羽 和八(館鼻地区)
理 事 永川 重作(厚木・鎌歌地区)
監 事 池田 六助(弁才澗地区) 水戸 敬蔵(浜町地区)
永井 繁太(小安地区)
右の役員が選出された昭和八年二〇日の設立総会の模様は誠にものものしいものであった。以下金沢藤吉老の言を借りてまとめてみよう。
無限責任漁業協同組合の設立は北海道庁水産課の行政指導により行なわれたものであり、全道的に無限責任の形態態でおしすすめられた(当時有限責任方式をとったのは全道で上磯だけといわれる)
戸井村無限責任漁業協同組合の設立総会は、戸井村字弁才澗にある日新小学校体育館を会場として開催された。
総会の空気は、昆布採取の入会い問題と組合債務分担の恐れなどの種々な思惑がかからみ合い最初から険悪なものであった。会場の警備には戸井全村の青年団が当り、警察も非常態勢をとり待機する有様であった。
開会はヤジ(○○)に始まり、単独部落組合を設立すべく主張する地区(昆布論争)や無限責任の債務負担を恐れて会場に入らずに態度未決定を続ける地区などで総会は難行したが、「債務分担責任の規定」が出来て和解が成立し、遂に戸井全村一本の無限責任漁業協同組合が誕生したのである。
太平洋戦争がはじまって水産業界も続制時代に入り、昭和一七年(一九四二)水産統制会にもとづき「漁業統制会社」が設立され、昭和一八年に水産業団体法が制定されて中央水産会と道水産会の下部組織として、各地方には一町村一漁業会が組織されて国家統制機構の中に組み入れられ、戸井漁業会(・・・・・)と呼称されるようになった。
事務所は戸井漁業組合より引続き戸井村役場庁舎の一隅にあったが、昭和一六年に根崎にあった亀田郡水産会の建物を購入し、解体して戸井町字館町二一番地に移転し事務所にあてた。以来現在の東戸井漁業協同組合の事務所としても利用されているが、最近その老朽が目立ち新築の計画が進められている。
各池田六助老の語るところによれば、昭和八年頃が全国的に鰮漁の最盛期で、戸井に於いても昭和九年から昭和一一年にかけて最高の水揚げが記録されている。本州方面よりの出稼ぎ漁夫によって村は殷賑(いんしん)を極め、戸井に於いて製造された鰮粕は本州四日市方面へ肥料として販売されたものである。
〓宇美藤蔵現東戸井漁業協同組合長によれば、イワシ漁業は定置網、地曳網、旋網の漁法によるものであるが、定置網漁法は戸井から鰊漁場(函館、江差、岩内、小樽、留萌、天塩方面)に出稼ぎする漁夫によってもたらされたものであり、定置網漁業が盛んな頃は「亀田郡定置網漁業協同組合」があった。
昭和二五年以降は鰮漁も次第に衰微し、定置網漁業組合も自然消滅していったのである。
組合長理事
金沢 藤吉 自昭和 八年 八月二〇日
至昭和二四年 六月三〇日