昭和四十五年に発刊された『尻岸内町史』に、昔の警察の沿革が載っているが、数少ない資料と二、三の古老からの聞き書きをつなぎ合わせてまとめたもので、その事蹟は誠に不正確、あいまいなものである。
『尻岸内町史』に「尻岸内巡査駐在所の創設は、同所の記録によると、明治三十五年七月十四日となっているだけで、詳細は不明であるが、他の文書で見ると、少くとも明治三十四年三月には設置されていたと見て差支えないようである」と書かれているが、戸井分署の記録には「尻岸内村字澗に戸井分署の巡査駐在所が設置されたのは、明治二十三年四月十八日である」と明記されている。『尻岸内町史』の編集者の推定より十一年前に設置されている。
「最初に赴任したのが岩田某巡査(自三四、三 至三四、一一)」とあるが、これ以前に何人かの巡査が赴任していることは確かである。尻岸内村内の駐在所の巡査は、すべて戸井分署に籍を置いて、それぞれの駐在所に駐在したので、戸井分署の記録を調べるとわかる。
尻岸内町史
岩田 某巡査(自三四、 三 至三四、一一)
大滝健三郎巡査(自三四、一二 至三六、 七)
渡辺 某巡査(自三六、 八 至三六、一一)
三輪 某巡査(自四一、 四 至不 詳 )
飯田 某巡査(自三六、一二 至四一、 三)
戸井分署の記録
岩田 忠蔵(自三三、 五、 九 至三四、一一、 三)
戸井分署の記録には大滝巡査の名がない。
渡辺 健蔵(自三五、一〇、三一 至三六、一一、 六)
三輪 亀三郎(自四〇、一〇、 六 至四二、 三、一八)
飯田 初太郎(自三五、一二、 九 至四二、 三、一八)
『尻岸内町史』に「古武井巡査駐在所は、明治三十四年七月一日、古武井硫黄山請願巡査派出所として設置され、四十一年四月一日、朝田鉱山請願巡査派出所と改称され、同年押野鉱山請願巡査派出所と改称され、大正六年三月三十一日根田内巡査駐在所の所管になったらしい」と書かれている。
戸井分署の記録に「明治四十四年五月十五日、尻岸内村字古武井の武佐沢に双股駐在所を設置した」とあり、更に「大正七年四月二十二日、古武井の双股駐在所が廃止された」とある。
根田内巡査駐在所は、明治三十一年一月十八日に設置され、古武井駐在所は、明治四十三年六月一日に設置され、根田内駐在所は古武井駐在所に合併されているので、『尻岸内町史』に「鉱山の巡査派出所が、大正六年三月三十一日根田内巡査駐在所の所管になったらしい」という推定は誤りである。根田内駐在所は明治四十三年五月三十一日限りで廃止されている。
古武井鉱山の派出所は、根田内駐在所の所管として設置され、明治四十四年五月十五日、双股駐在所として昇格になり、戸井分署から巡査が派遣されたのである。古武井鉱山の崩雪事件に活躍した、小林捨次郎巡査は戸井分署に、明治三十八年九月八日から明治四十一年六月十八日まで在勤しているので、小林巡査は双股駐在所詰であったことになる。
双股巡査駐在所は大正七年四月二十二日に廃止され、その後は双股駐在所の所管区域が古武井駐在所に移されたのである。
『尻岸内町史』に「根田内駐在所の創設された時期も、存続した期間も判然としない」と書き、古老村上庄兵術、佐々木才太郎の回顧談を載せている。
戸井分署記録によると「明治三十一年一月八日、尻岸内村字根田内に根田内巡査駐在所を設置し、明治四十三年六月一日、古武井の浜中に古武井巡査駐在所を設置すると同時に根田内駐在所を廃止した」とあるので、その設置廃止の年月日は明確である。村上老の「根田内駐在所は大正六年頃まで設置されていた」というのは記憶違いである。
根田内駐在所に勤務した巡査として村上老は、杉浦巡査、小畑巡査、飯田巡査を挙げ、佐々木老は、初代加藤巡査、吉沢三十治巡査、杉浦時高巡査、宮田某巡査をあげている。
然し二人の古老の挙げた名には記憶違いがある。佐々木老の初代加藤というのは、阿蘇(あそ)久治か佐藤の誤と思われ、吉沢三十(○)治は吉沢三重(○)治の誤り、杉浦時高(○)は杉浦時孝(○)の誤である。村上老の語る小畑巡査は小幡泰蔵巡査である。飯田巡査は飯田初太郎巡査であり、宮田巡査は宮田信行巡査である。
根田内駐在所の設置は明治三十一年(一八九八)で、廃止が明治四十三年(一九一〇)なので、今から七十五年前に設置され、十二年間存続して六十二年前に廃止されたのであるが、断片的な記録や古老の談話の寄せ集めでは当時のことを正確に再現できないという一つの例である。記憶力を誇る八十才の老人でも、六十年前の記憶は誠に不正確で間違いが多い。
人間の記憶は不正確なものであり、あいまいなものである。記憶力を誇る古老の語ることにも、年代、日時の誤りがあり、内容の記憶違いが多い。十人の古老の話を寄せ集めても、昔の事蹟の再現はできない。その時その時に記録されたものが最も正確な資料である。
明治十八年十月三日、函館警察署尻岸内分署が設置され、小安、戸井、尻岸内、椴法華の四村を管轄する分署が設置されたが、僅か三ヶ月後の明治十九年一月二十六日、三県制の廃止と同時に廃止され、明治二十年五月二十日、亀田警察署戸井分署が設置されたのである。