円空は下海岸には来(こ)なかったというのが、仏教研究家の定説であったが、筆者は昭和四十二年八月一日、汐首岬の高台に昔からあった観音堂で円空仏を発見し、従来の定説を覆(くつが)えした。その時筆者は「円空は寛文七年の秋、汐首附近から船出し、下北半島の易国間か大間附近に上陸したものと思う」と推定した。
佐井村の長福寺に伝わっている円空仏は、十一面観音像で、佐井村では「寛文八年、円空が北海道から帰路にここに滞在して作ったものだ」と言い伝えられている。
長福寺の円空仏(佐井村)
この伝説の根拠は不明であるが、寛文八年は円空の足跡の年次と符合(ふごう)しないが、「寛文七年秋、汐首から下北へ渡った」という推定に合致している。筆者は長福寺の円空仏を実見していない。佐井村に円空仏についての照会をしたが全然回答がなかった。
円空が北海道で作った何体かの仏像の背面に、作仏した年月日を墨書しているが、佐井村の円空仏に年月日を記入していれば、貴重な証拠である。
「寛文八年」と背面に書かれているのだろうか、又は単なる言い伝えであろうか。或は何かの記録があるのだろうか。
佐井村長福寺の円空仏は、昭和三十六年(一九六一)十月六日付で青森県重要文化財に指定された。
下北には佐井村長福寺の外に、恐山円通寺、大湊の常楽寺にもある。
恐山円通寺の円空仏は、片足倚座の聖観音像で円空が蝦夷地の帰りに田名部の熊谷家に寄宿し、ここで作って熊谷家に与えたものだが、熊谷家の主人生岩源無居士がこれを万人堂に納め、万人堂が退転した時、熊谷家の檀那寺である田名部の円通寺に移され、後に円通寺管理下の恐山に運ばれたものである。
菅江真澄が寛政四年(一七九二)十月十三日に恐山に詣でて「観音の御堂(みどう)に慈覚円仁大師の作った木尊仏地蔵菩薩のわきに、恵心の作仏と中世の円空作の仏像がある」と書いているので、寛政四年には既に恐山に運ばれていたことがわかる。
大湊(むつ市)の常楽寺にも円空仏が一体ある。この円空仏は阿弥陀如来の立像で、総高一四六センチである。
常楽寺は昔田名部にあり、神宮寺といっていたので、後世になってから神宮寺から移されたものと推定されている。
津軽では三厩の義経(ぎけい)寺、鯵(あじ)ケ沢の延寿庵、蓬田(よごみた)阿弥陀川の正法院、油川の浄満寺、田舎館村の弁天堂、弘前市の西福寺(二体)等に円空仏がある。
五来重(ごらいしげる)その著「生涯と作品円空仏」に「円空が北海道を去ったのは寛文七年か八年であろう。そのルートは下北半島にむけてと推定したので、私たちは函館から大間行のフェリーボートにのった」と書いている。