嘉永七年(一八五四)(十一月二十七日安政と改元された)一月、ペルリがアメリカの艦隊を率えて神奈川沖に碇泊し、半ば威嚇(いかく)的に開港を迫り、三月になって幕府は止むなくペルリ提督(ていとく)との間に開港条約を締結し、取敢えず伊豆の下田港と蝦夷地の箱館港の両港を開くことにし、アメリカの軍艦や船舶に対して食糧、薪炭その他の日用品を供給することにした。
この開港条約締結後、ペルリ提督は両港の視察を申し出で、蝦夷地の箱館へは嘉七年四月十五日、軍艦三隻が入港し、次いで四月二十一日には更に二隻が入港し、五隻の黒船が威風堂々と箱館港に錨(いかり)を下し、ペルリ以下の乗組員が一斉に上陸し、港や市街を視察したのである。
五隻の軍艦は約十日間箱館港に碇泊し、箱館市内を隅(くま)なく視察して五月八日箱館から去ったが、黒船碇泊中は箱館の住民は上を下への大騒ぎをし、眼色、毛色の変った異人にどんなことをされるかと恐れおののいたのである。箱館の人々だけでなく、近郷近在の住民もいろいろな流言飛語(りゅうげんひご)を伝え聞いて大騒ぎをした。黒船の航路に当っていた恵山沖から箱館までの津軽海峡の沿岸にある下海岸の村々の住民たちは、黒船が不気味な姿で沖を通過した時は悪魔の襲来したように恐怖におののいたのである。
このような事態に遭遇(そうぐう)した幕府は、安政元年(一八五四)六月、再び全蝦夷地を直轄統治することにした。アメリカと開港条約を結んでから、イギリス・フランスなどの国々も開港を迫って幕府に圧力をかけた。諸外国の圧力に対して、幕府内や諸藩の意見は攘夷論と開港論とに真二つに分れ、それに加えて尊皇、佐幕の意見が結びつき、日本全国が物情騒然となった時代である。
この時代は慶応三年(一八六七)幕府が朝廷に政権を奉還するまでの僅か十四年間であるが、長年の鎖国政策を止むなく放棄した、新時代への陣痛時代であったのである。
黒船は太平の夢を覚まされてから、明治時代の幕明けを迎えるまでの十四年間は全国到るところで、尊皇攘夷、佐幕開港派の葛藤(かっとう)が繰り返され、血なまぐさい事件が相続いた。又尊皇開港を主張し、王政復古を叫ぶ多くの有為の志士たちが、幕府の新撰組に斬殺されたり、幕府に捕えられて牢獄につながれたり、処刑されたりした激動の時代であった。
又ロシヤの東方進出が活発化して来たので、幕府は翌安政二年二月二十三日、松前地方の東部、木古内以東及び西部乙部以北、並びに東西蝦夷地を直轄地とし、箱館奉行の管轄とした。
幕府はロシヤに備えるために、沿岸の防備を固めると同時に、幕領時代前期に引続いて、交通運輸に対する政策に力を注いだ。松前家が復封してから荒廃した各地の山道を復旧させ、従来の道路を改修し、或は新たに山道を開削したりした。又各地の要所々々に駅逓(えきてい)を設け、海運の刷新を図った。
尊皇攘夷がやがて、倒幕運動に発展し、三百年続いた徳川幕府が倒れ、幕府が朝廷に大政を奉還した。かくして慶応三年九月八日、明治と改正し、文明開化の時代にはいったのである。