歴史は記録による資料によって時代区分されてきた。政治による時代区分、財政による時代区分など国によって違うが、日本は政治の区分によって都のある奈良、平安、鎌倉、室町(京都)、江戸と区分している。問題となるのは北海道である。日本の歴史の中で北海道をみると、その時代の特色が北海道にはみられず、北海道中心の考え方からすれば、普通一般の日本の時代区分では北海道の歴史区分と一致しない。
奈良、平安、鎌倉、室町、江戸の時代は、北海道に関する資料が少なく、松前藩となる以前は別な北海道特有の時代があって、それは記録にないアイヌの時代と埋蔵する土の中の資料、考古学による資料に求められなければならない。考古学からみても縄文時代までは本州と対比できるが、弥生時代や古噴時代がない。稲作農耕による富の蓄積と豪族の発生、金属器や鉄生産が行われていなかったのである。
旧石器時代から縄文時代と移り変り、本州では中国から朝鮮に伝わった稲作農耕文化と金属器文化が北九州に渡来して、日本特有の弥生文化を形成した。この弥生文化は西日本から東日本へと全国的に広まって弥生時代となるが、北海道は弥生文化の影響を受けながら縄文文化の伝統を強く残した続縄文文化となった。弥生文化の時代は、稲作農耕文化を発展させた農耕社会に豪族を発生させ、権力社会の古墳文化の時代となるが、やがて大陸から高度の文明を取り入れた古代国家を成立させた。しかし、北海道には古墳文化を発展させることなく、続縄文文化の時代が続いた。奈良時代になると、宮城県に多賀城ができ、坂上田村磨が征夷大将軍となって蝦夷征伐をするが、多賀城に次いで秋田城ができ、中央政権が東北地方を支配した。この頃の北海道は、東北の中央政権がもたらした文物を導入していた。この歴史事情について、土着の人達がどのような社会集団を形成したか明らかでないが、考古学では擦文時代と呼んでいる。
縄文時代以後、続縄文文化の時代を原史時代とし、続縄文文化の時代のあとを有史時代として北海道の考古学では時代区分している。北海道ではアイヌの人達がながい間、生活していたところであるが、その起源がいつであったのかさだかではない。蝦夷がアイヌであったとすると記録の上で奈良時代には東北地方にもアイヌが定住していたことになる。アイヌという呼び名は十七世紀になってからであるが、明治から昭和初期までは、道南地方の各地にアイヌが住んでいた。もっとも江戸時代から和人と同化して、アイヌ文化は本来的文化が変化してしまうが、アイヌ文化の変化は、鎌倉の後半から室町時代に和人文化の影響で変化の時期があり、土器石器が使われなくなった。
古代から中世、近世と日本史的な時代区分に従っているが、北海道に関する記録、アイヌの側からみる歴史の組立てができないため、古代から中世の歴史は、土の中に埋蔵されている歴史資料によって組立てられていかなければならない。