椴法華遺跡に接する大龍寺遺跡は、境内から裏の台地斜面に広がっている。八幡川沿いに百五十メートルの範囲に遺物が散在していることが北海道教育委員会の一般分布調査で確認されている。縄文時代中期から続縄文の恵山式文化の時代までである。時期的には椴法華遺跡と似ているが、資料から先史の時代を追ってみると、縄文中期は余市式とほぼ時期が新しい資料が出土している。椴法華遺跡では縄文中期の余市式が少ないが、大龍寺遺跡では縄文中期末の余市式から縄文後期の初めの資料が畑地で採集できる。この遺跡の主体となる時期は、縄文中期末から縄文後期初頭といってよいであろう。そのあとに縄文晩期の前半と続縄文前期の恵山式の時期に生活した遺跡といえるであろう。
縄文中期の終末から縄文後期初頭の時期は、北海道でもようやく研究されて、北海道と青森との文化の接触が明らかになっているが、中期に青森と北海道南部に共通する円筒上層式の文化がある。この文化のあとに東北地方の大木系の文化が入ってくるが、北海道特有の余市式と呼ぶ文化が道南に広まって、青森県の下北半島である佐井村にまでその影響をあたえている。この時期が縄文中期末で、大龍寺遺跡はまだ東北文化の影響を受けない、むしろ北海道的な文化で津軽半島を渡った下北半島に文化の影響をあたえた時期である。縄文後期初頭というのは、まだ顕著なすり消文様の発達や器形に装飾的変化がみられない時期である。
人間の生活文化は、当時の時代を反映させるもので、豊かさや貧しさといった生活環境が作品にも現われている。円筒上層式の土器には装飾的な造形や文様まで多種多様の縄文技法がみられるが、余市式とそれ以後の短かい時期は、土器も素朴である。土器の形は一般に深鉢形土器で、口縁に粘土紐の帯を貼付けて縄文を施したり、その粘土紐の上に縄を押圧した文様をつけるといった飾りがあるだけである。採集した破片には口縁部に装飾文がなく、全体に単純な斜行縄文だけのものがある。縄文にも原体の施文技術があって、余市式なりの装飾文がある。装飾文のない深鉢形土器は、縄文中期から縄文後期にもあり、地文となる縄文原体が縄文後期になると細くなる。縄文後期にはストーン・サークルの墓や中国殷・周に現われる青銅製の青龍刀を模倣した青龍刀形石器が出土する。
北海道教育委員会作成の調査カードに縄文晩期とあるが、遺跡で踏査して採集した資料と村教委員会所蔵資料から考えると縄文晩期中頃からやや時期が下がるまででないかと思われる。教育委員会所蔵で出土地がはっきりしないのがあり、決めかねる点もある。
採集した資料は、口縁に波状口縁で外側に一本の平行沈線がある。地文は斜行縄文で、縄文を施してから波状口縁を作り、その境に平行沈線をつけている。内面には沈線文が走っている。これは鉢形土器と考えられる。
大龍寺遺跡の資料は越崎哲蔵氏が所有している。村教委員会所蔵品をみるとほぼ完形品がある。壺形土器と壺形台付土器である。壺形土器は成形が粗雑であって、体部がふくらみ、上部が細く頸部と囗がついている。文様は平行沈線文と体部のふくらみ部分にヘラ作りの連続する舌状文がある。これは工字文にみられる文様や雲形文などでなく、独特な文様である。台付きの壺は、器形的に晩期後半に似ているが、肩部に四本の平行沈線があり、地文には縄文がない。二点の壺形土器は墓の副葬品で実用品でなかったのでないかと思われる。
この遺跡の縄文晩期の資料は、下北島の福浦崎でも採取したことがあり道南地方では一般的でないが、青森県の下北半島や半島の津軽海峡沿岸と関連が求められるかも知れない。
続縄文の恵山式土器は、甕形土器が多く、台付鉢形土器もある。この時期の特徴は甕が他の器形より多くなり、縄文時代の壺形土器や鉢形土器が減少する。これは地文となる縄文も単節斜行縄文でなく、縄文の条を直線的に上部から下部に施文するため原体を斜行移動させ、器表面をナデ磨きしてから沈線文をつけるという変化がある。石器にも変化がみられ、これまでの石小刀は靴形になったりバチ形となって木などの柄をつけて用い、石斧も片刀石斧となって、石斧の使用方法が変わる。
大龍寺遺跡は、椴法華遺跡と同様に三回にわたる時期に断続的に生活した遺跡といえる。縄文中期末には大龍寺が主な集落地で、縄文晩期には椴法華遺跡のほうが早く、ある時間をおいて大龍寺まで生活圏が広がり、縄文時代が過ぎて続縄文時代になると両方で生活が営まれた。
この遺跡は古くから貝塚があるといわれている。動物の骨がよく発見されるようである。貝塚は貝を主とするが骨塚は動物の骨がおもで、あまり知られていない塚がみつかるかも知れない。