明治三年

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・二月十三日 樺太開拓使設置。
・七月七日 新寺創立、新道建設等の目的で東本願寺大谷光瑩一行函館に到着、その後同月東本願寺が建設中の軍川・砂原間道路工事を激励し、札幌に向かう。
・九月十九日 平民(百姓・漁師・職人等)に苗字が許される。
 これらの人々は従来屋号や出身地・職業などを上につけて、例えば塩屋(商売)の留吉などと称していたが、この日から正式に姓を名乗ることを許されるようになった。椴法華村では明治三年には旧武士階級に属する者は存在しないことから、多分この日あたりから徐々に姓名を名乗るようになったものと推定される。
・閏十月九日 東京開拓使庁を廃止し函館出張所を本庁とする。
・十一月 開拓使は『漁場需用品貸与規則』を施行し、零細漁民救済のため米・塩・日用品・その他を函館原価で貸し付け、毎年十一月収穫物で支払う方法をとる。(この時椴法華村でどのくらい利用されたか額は不明であるが、前後の様子から利用されていたものと推定される)
・十一月 この頃まで亀田地区では宗門改が行われる。
 明治三年十一月鍛治村宗門人別帳には、『此度切支丹(キリシタン)宗門就御改當村一々詮議仕候処、紛敷者一切無御座候。若万一疑敷人猶有之ば早速御注進奉申上候。』の文が見られる。
 我が椴法華村の宗門人別帳は発見されていないが、役人が宗門改のため来村したことを示す資料が残されていることから、椴法華村で宗門改めが実施されていたことは確かである。
・この年、津軽弘前の商人宮本金平、恵山硫黄を採掘する。(『恵山硫黄鉱山史』)
・この年、亀田・上磯・茅部三郡は田地・畑地役を『田畑貢納』と称し、田地は検見(けんみ)取五分五民、公納五分(但し明治七年迄は収納高の内五厘用捨引き金二分五厘収納)畑地は一段金参銭五厘三毛を収納す。