・四月四日 戸籍法発布
国民を華族・卒・神官・僧侶・平民に区分する。
・五月十日 新貨条例制定。(六月十六日より実施)
伊藤博文の金本位制にすべきであるという建議により制定されたもので、十進法による円・銭・厘の単位が使用されることに定められた。この条例制定の目的は、貿易を盛んにし富国強兵策を推進するためには、国内の流通機構を整備する必要があり、そのためには先ず貨幣の統一をすることが求められたからである。(この時一両を一円とする。)
・六月一日 開拓使札幌を本府と定め、開拓使函館出張所を函館出張開拓使庁と改める。
・七月十四日 廃藩置県を実施。
版籍(土地・人民)は明治二年に奉還されたが、旧藩主が知事となって旧領地に存在しているため、政府権力の運用が非常にしづらかった。このため名実ともに中央集権国家体制をつくり上げるため、一道三庁七十二県を置き中央から府知事・県令を任命することにした。これを廃藩置県という。(この時の廃藩数二百七十三)
・八月九日 散髪・廃刀を許可する。
『散髪脱刀勝手たるべし』の布告が出され、その後明治六年明治天皇が『まげ』を切り落されたことから、上は天皇から下は庶民に至るまで、『ちょんまげ』をやめ所謂(いわゆる)『ザンギリ頭』が多数出現するようになった。
当時民間に流行した歌に『半髪頭をたたいてみれば因循姑息(いんじゅうこそく)の音がする。(古い風習からの一時のがれの音がする)総髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする。(武家政治から天皇制にもどった音がする)散切(ざんぎり)頭をたたいてみれば文明開化の音がする。(西洋文明を崇拝し旧弊を打破しようとする音がする)』というのがあるが、当時の気風をよく物語っている。
江戸時代に結髪床(かみゆいどこ)(かみゆい店)と云っていたものが、明治に入って散髪(さんぱつ)屋というようになり、明治文明開化の象徴的である『ザンギリ頭』はここでどんどん生れるようになった。
このように全国的に大流行したザンギリ頭も椴法華では、当時理髪店もなく江戸時代からの風習をなかなか改められなかったようである。他村ではザンギリ頭にしたのは、まず御役所の役人達であったと云われている。このことから考え椴法華でも村役人あたりが最初にザンギリ頭にしたものと推定される。
・九月二十九日 開拓使は各郡永住人の従来からの拝借地を『沽券地(こけんち)』とし、出稼人のそれはいぜん拝借地とすべき旨を布達する。
・十月三日 宗門人別の廃止を布達する。
・十月 根田内村民、三好又右エ門・柱井忠平共同で恵山硫黄の採取を始める。毎年約四千貫ずつ採取し明治七年まで継続する。
・明治四年の椴法華
『明治四年渡島国上磯郡茅部郡二郡二十九ヶ村一面表』は次のように記している。
椴法華村
馬 二十三疋、税金 二分永四十二文九ト
大根、五ショ芋、小豆、大豆
大小船 六十四艘、家 五十軒