明治十年

93 ~ 96 / 1354ページ
・一月十日 椴法華村小谷金藏、銚子崎で鉄砲その他を使用し、『大セイウチ』を捕獲する。
 村内では誰れもこの動物の名を知る者は居らず、珍獣の話題は村内ばかりでなく数日で近隣諸村に広まる。この珍獣発見の報は椴法華の村役人から直ちに、戸井分署を通じて開拓使函館支庁に報告された。開拓使は役人を派遣して調査にあたらせる一方、珍獣を買上げるから(東京の博物館の展示物として入用)大切に保存し、運送の途中欠損などすることがないように注意し、大至急函館へ廻送するように命じた。椴法華村ではこの報を受けるや直ちに見張りを付け、函館までの運送方法について種々検討したが、陸路は無理のため海路運送することに決定し、人夫二十七人で巻網を掛け、持府船に積み込むことに成功した。
 開拓使はこの時、椴法華から尻沢辺(函館住吉町)までの村々に対し、磯船二艘・人夫六人ずつを出し交代で引船するように布達を発し、当時椴法華尻岸内・戸井・小安四村の代表者である副総代増輪半兵衛を指揮官として、更に捕獲者である小谷金藏を付き添わせることにした。かくて天気海上ともにおだやかな一月三十日椴法華を出発、一月三十一日午前二時無事尻沢辺へ到着、直ちに東京行の玄武丸に氷詰にして積み込まれた。
 その後東京に於て剝製にされたが、この『セイウチ』の髭(ヒゲ)が無いことに気づかれ、開拓使函館支庁から椴法華村に対し髭の調査発見にあたるよう命ぜられた。このため村役人・捕獲者等が懸命に髭の行方を追求したところ、子供達の遊び道具・その他になっていたものを二十本発見することが出来、早速開拓使函館支庁へ届けられた。なおセイウチの価格は、どの位いの価値のある物か判定出来ずいろいろ苦心したが、最終的には小谷金藏から申出された金三十五円に決定され、開拓使函館支庁会計係より小谷金藏へ金三十五円が支払われた。

海馬の図 開物類纂第二号(函館図書館蔵)

・二月二十二日 開拓使函館支庁、支庁管轄下の役所に対し、今後火鉢・タバコ盆を廃し火炉(ストーブ)及びマッチを使用するように命ずる。(開拓使の洋式暖炉使用奨励は九年十二月にも出されている)
 
   明治十年從一月 事務雑集(北海道蔵)
           七重勧業課試験場
   第拾四号        課係
               分署
  當支廳及各官衙中向後火鉢並煙草盆相廢火爐及マッチヲ可相用尤是迠火爐之設無之場所ハ先從之通据置火爐設置方之儀勘弁之上可伺出此旨相達候事
   但函館区中各官衙ハ明廿三日ゟ其他ハ此達之翌日ゟ施行之儀ト可相心得事
           函館支廳
  明治十年二月廿二日
         開拓権少書記官 柳田友郷
 
・二月 西南戦争勃発、西郷隆盛を中心とした薩軍一万五千人は、熊本城を包囲しこれに九州各地の不平士族が加わり、西郷軍は勢力を増加させ威気大いに上がったが、近代装備を有する明治政府軍隊の前に敗れ、九月西郷隆盛は鹿児島で自殺をとげた。かくて明治政府に対する士族の最後にして最大の乱は終結したのである。
 この西南戦争の時、開拓使長官黒田清隆は征討参軍に任ぜられ、四月には屯田兵一大隊が札幌を出発、その後六月には函館・札幌両支庁管轄下より士族六百人を募り、屯田予備兵として東京に向け出発するなど、北海道でも西南戦争に対応する動きが見られた。なお万が一箱館戦争の時のように薩軍が北海道へ侵入して来た時、開拓使管轄下の役所はどのようにして防備体制を整えたらよいか、連絡方法や建物・書類の取り扱い方に至るまで、対策を立てるように東京より密命が発せられていた。
・三月 椴法華村、函館警察署管轄区域に属する。(警察官の配置なし)
・四月五日 函館支庁戸井分署廃止。
・六月 大小区に総代人を置き選挙法を定める。
・九月十日 開拓使函館支庁、熊及び狼一頭を捕獲した者に金二円を与える。この頃道内では熊や狼による人畜に対する被害が多く、これをなんとか防止しようとしてこのような捕獲奨励金が出されることになったもので、両耳を添えて届出ればよいことにされていた。なお明治十一年五月には給与額を増し、熊一頭五円、狼は七円とされている。(明治十年米一俵六十キログラムが約一円三十四銭)
・十二月十三日 北海道地券発行条例発布。
 この時土地の所有者には土地の価格を定めた『地券』が交付され、これに基づき地租が徴収され土地を売買した場合、所有者が書き入れられるようになっていた。現在椴法華村にある一番古い地券は、明治十三年三月一日付開拓使発行のものである。この年西南戦争の影響で物価上昇する。