明治二十八年

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・この年春日清戦争のため、前年に引き続き米・食料品・船賃等が高騰し人々の生活が圧迫される。
・二月 日本軍の勝利が続きこのため商況が次第に回復する。
・三月 日清戦争の増員部隊として屯田兵により、臨時第七師団が編成され東京へ向け出発する。(東京に待機している間に終戦となる)
・四月一日 椴法華簡易小学校を『椴法華尋常小学校』と改称する。
・四月十七日 日清講和条約調印。(下関条約)動員兵力十五万人、内一万七千人の戦死者を出して日本はようやく勝利を得る。
 『下関条約』の内容は、
  ・朝鮮の独立を清が認めること。
  ・遼東半島・台湾・膨湖諸島を日本へ譲ること。
  ・約三億円の賠償金を日本へ支払うこと。
・五月 平和が回復し人々は生活が安定するものと期待したが、実際には諸物価の上昇が続き庶民の生活を苦しめるような状況となった。
・五月十日 ドイツ・ロシア・フランスの三国は遼東半島の返還を日本に勧告する。
・六月十二日 斉藤ツル赤井川硫黄の試掘許可を得る。試掘理由はこの頃戦争景気のため硫黄の値段が高く需要も多くなったためと考えられる。
・八月二十三日 椴法華尋常小学校補習科附設認可となる。(修学年限二年)
・九月二十一日 渡島・胆振・後志・石狩の四ヵ国に徴兵制施行を決定される。(明治二十九年一月一日より施行)
・十一月八日 遼東半島還付条約調印。
 ロシア・ドイツ・フランスは日本の大陸進出に対して遼東半島の返還要求という行動をとったが、日本の国民はこのことにより感情を強く刺戟され、且つ政府は国力の充実を図り更に軍備の増強を進めようとするようになった。
・この年の椴法華の漁業実態。
 椴法華村の鰮漁業は明治二十七年あたりまで、夏漁(八月中旬から下旬が最盛期で秋土用頃で終る)中心であったものが、この年あたりから秋漁(十一月から十二月二十六・七日まで)中心と変化する。
・鱈漁、椴法華村では十月から翌年一月にかけて鱈釣が盛んに行われており、使用する船は川崎船・持符船・磯船で漁具としては、延縄やごろた縄が使われていた。
・『えさ』、主として鰮が使用されたが、普段二斗樽で一杯三十銭前後であるものが、漁期になれば四十五銭から七・八十銭にまで高騰したと云われている。
・漁場、椴法華村では漁期の最初から最後まで椴法華沖の漁場に出漁したが、隣村の根田内村では十一月上旬は椴法華沖へ、下旬には磯谷沖へ、十二月には白浜沖へ、その後は根田内沖へ出漁というように漁場が変えられていた。
・この年あたりより、函館のM高橋回漕店の持船、下海岸・陰海岸諸港へ定期船として出入する。
・この年、椴法華昆布営業組合存在、組合員千三百三十三人、(設立時期等詳細不明)
・この年、押野常松、恵山硫黄鉱山の所有権を竹内綱より譲り受け、明治四十年までそのままにしておく。
・この年、黒田清輝出品の裸婦、第四回内国博覧会で陳列の可否をめぐって大論争となる。
・この年、遼東半島返還に対する国民の意志を表現する方法として、あらゆる新聞が『臥薪嘗胆』の文字を使用する。
『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』、復仇の志を抱いて長い間辛苦艱難すること。(広辞苑)