明治三十八年

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・一月一日 旅順のロシア軍降伏。
・一月 塩専売法施行。
・二月八日 逓信省、津軽海峡及び付近灯台が軍事上の理由により、消灯することもあり得ることを示し、付近を航行する船舶は充分に注意するように告示する。(明治三十八年二月函館毎日新聞参考)
・二月 この頃物価騰貴と増税のため道民の生活が苦しくなり、夕張炭山の鉱夫や小樽高島の漁夫の中にストライキを起す者が出現する。
・三月十日 日本軍奉天を占領、奉天会戦における日本軍の死傷者約七万人、参戦人員日本軍二十万人、露軍三十二万人。
・四月十八日 津軽海峡防禦海面を指定、函館湾防禦海面を解除する。
 
    東奥日報 明治三十八年四月十九日
     津軽海峽防禦海面 十八日東京特電
   本日海軍省告示を以て汐首岬大間岬接合線龍飛岬白神岬接合線辨天岬矢不來岬接合線以内の海面を津軽海峽防禦海面と指定されたり。
 
・四月 原木山に海軍監視哨を設置する。(『尻岸内町史』)
・四月 戦費入用のため第五回国庫債券募集が行われ、この時函館支庁職員が募集のため来村する。(以前にも何度か募集に来村する)なお第四回の椴法華村の募集人員は二十名、募集額二千百二十五円でこれは予定募集額より六百七十五円も多いものであった。
・五月二十七・八日 日本海海戦。
 この時日本海軍はロシアの軍艦三十八隻中二十隻を撃沈、五隻を捕獲する。
・八月十日 日露講和会議。
 戦争は始め日本側優位のうちに展開されたが、後半になり日本側の戦力は低下しつつあった。一方ロシア側も戦力は日本に勝るものを有していたが、ロシア国内における革命勢力の台頭・労働者のストライキ・軍隊の反乱などがあり、戦争を遂行することは難しい状態となっていた。ちょうどこの機を捕えたアメリカは両国に講和を呼びかけ、日本・ロシアの両国はこれに応じ、かくて八月十日アメリカの軍港ポーツマスで日露の講和会議が開かれることになったものである。
・八月十九日 駒ヶ岳噴火・被害軽微。
・九月五日 日露講和条約調印。
 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲裁により、アメリカのポーツマスで小村寿太郎とウイッテの両国全権の間で講和条約が結ばれる。
     講和の内容
  ・韓国における日本の優越権を認める。
  ・旅順・大連の租借権を日本に譲る。
  ・南満州鉄道と沿線の炭鉱などを日本に譲る。
  ・樺太の北緯五十度以南を日本に譲る。
  ・沿海州の漁業権を日本に与える。
  (この時日本は北洋漁業権を獲得する)
・十月十九日 津軽海峡防禦海面を解除。
 下海岸沿岸漁民はようやく自由に漁業が出来るようになる。
・この年、日露戦争のため戦費を費やし、国・道ともに諸経費の節約を実施する。戦争によって一部に成金も生れたが、大部分の庶民は苦しい生活を余儀なくされていた。
 日露戦争には椴法華村から二十数名が出征して行ったが、その内の四名は二度と故郷の土を踏むことができなかった。(三名戦死・一名戦病死)家族の嘆きやいかに!!
・この年、椴法華村では春より食糧節約のため、例年より多目に馬鈴薯・粟・稗・トウモロコシ・その他を植えたが、期待に反して不作となり、その上馬鈴薯にはロット病が(土の中で腐敗してしまう病気)発生するなど農業は不振であった。
・十二月 大沼公園予定地を設けられる。
・この年、〓小井田、椴法華村で艀船業を始める。
・この年、夏目漱石、『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表する。
・この年、『戦友』や『美しき天然』の歌唱が流行する。