・二月 函館・椴法華間の電話架設のため、下海岸各村より寄付金を募集する。
椴法華村の割合額は千円で現在のように商店や一般家庭に設置されるのではなく、村内にただ一本郵便局に公衆電話として設置される計画であったが、村民の期待と関心は非常に高かった。(大正三年三月開通)
・七月 函館の人藤村篤治、赤井川硫黄鉱山の鉱業権を借用し採鉱と製錬を開始する。(後、大正四年この鉱業権を三井鉱山に譲る。)
・八月二十七日、二十八日 台風のため全道的な大暴風雨となる。
・この年、夏季低温のため未曽有の大凶作となり米価上昇する。
・十二月 農村救済のために臨時道会が開かれる。
・この年、前年からの不景気と凶作のため、本州及び北海道各地から多数の入稼者が来村する。
本州からの入稼者の大部分は、青森県・新潟県・石川県などからであり、裏日本から来る人々の中には例年のように一家が川崎船に乗り込み、いか釣り・鱈釣りに来村した人々もあったが、中には大正元年の凶作と不景気から何んとか立ち直るべく臨時に来村した者もあった。
また本道からの来村者は、渡島の上磯・木古内方面その他桧山管内からの入稼者が多く、夏期の低温により大凶作が予想されたことから「秋いか」とその後の鱈漁などを目ざして、いつもの年より多くの入稼者があった。
このように多くの入稼者をむかえた椴法華であったが、いわし漁・いか漁は不振で、鱈漁はやや良好(値段が高い)という状況であり、入稼者達は例年とおりの収入を得ることは出来なかったようである。なおこの年椴法華村から二十二名の者が樺太へ出ているが出稼に出たものと推定される。
椴法華来村者数
・この年、椴法華美誉納税組合創立。
・この頃、村内で相撲流行する。
・この年、九月より中里介山の『大菩薩峠』が新聞に連載される。
『死ね・死ね・死にたいやつは、勝手に死ぬがよい』とうそぶく、幕末を背景とした盲目の剣士机竜之助の物語は、当時の大衆の心をつかまえてはなさなかった。
・この年、講談社「少年倶楽部」を初めて発行する。
・この年、「どんどん節」・「赤いサラフアン」・「故郷を離るる歌」・「早春賦」などが流行する。